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12-5

「妹さんは、貴方に話し掛けてくれましたか?」

 呼吸のペースに変化はない。読み通り、彼を悪魔呼ばわりしたのは別の人間だ。仲が親密な、妹以外の誰か。かつ、妹とも親密である、誰か。

「妹さん以外の誰か……知っている人がいますね?」

 青年は下を向いたまま震えだした。何を知っているのか、その主語を飛ばして語ったにも関わらず反応が返ってきている。

「ならばもう遅い。貴方、一度逃げたでしょう。いや、二回目ですか? 逃げ道の無いことを知っていて、それでもまだ逃げ道を探すつもりですか?」
「……仕方なかったんだ」
「仕方、ない?」

 頭を掻き毟りながら語るその姿は、懺悔ではなく、それを聞く鎮鬼の姿は、聖職者ではない。

「仕方なかったんだ。ずっと我慢してきた。あいつの姿を見るたびに、必死になって……俺はいつだって我慢してきた。あいつを守るなんて、言い訳だったんだ。そうしていれば気が紛れると思った。そうしていれば、少なくとも、あいつが俺の側を離れることは無かった」

 突然饒舌になる。肯定してもらいたいという心理が働いているからだ。

「ええ、そうですね」

 流れを乱さない程度に、鎮鬼は相槌を入れる。

「でも、もう限界だった。誰もが当然のように、俺に我慢を要求する。責任感? 頼りになる? 欲求を抑えるのが当たり前? どうして、俺だけが我慢してなけりゃならないんだ? 他の連中なんか見てみろよ、やりたい放題やっているくせに後始末は全部俺に押し付けて逃げていく。じゃあ何だ、俺は他人の尻拭いとあいつのお守りのために生きているのか? 俺は何もしちゃいけないのか?」

 一気に喋ると、青年はすがるような目をして鎮鬼を見つめた。憐れむような鎮鬼の表情が青年の言葉を煽る。

「馬鹿馬鹿しくなったんだ。手を伸ばせばそこにあるのに、何もしないでいるのが。そうだと思わないか?」
「ええ。分かりますよ」

 青年は泣きそうな笑顔になった。

「でも、貴方が逃げ出したのは、その問題点ではないでしょう」

 顔面の筋組織が収縮。クリーンヒットだ。

「周囲の人々は、貴方に対して『責任感ある人物』というイメージを抱いていた。実際、貴方自身がそうあろうとしてきたし、元からそういう性格だったのでしょう。でも、貴方は……」

 間を置いて、次の言葉に相手の意識を集中させるのは基本的な技術だ。声のトーンは聞き取りやすい程度に低く、確実に認識させるためにゆっくりと、しかし最低限の速度は保つ。表情は明確に判明しないように。相手の想像、そして希望次第でどうとでも取れるように。

「そんな、良い兄としての自分に、もう戻りたくはなかったんだ」

 この言葉で、青年の心理道路は鎮鬼のそれに合流した。

「それ以外の自分など無いと分かっていたのに。他にどうやって生きていけば良いのかすら分からなかったのに。己の中にある薄汚い欲求に蓋もできず、かといって直視し続けることもできず、貴方はその環境全てから逃げ出した。新興宗教を利用して、何もかも忘れたふりをして、飛びもしない薬を飲んで」

 突き付けられて、青年は息を吸うこともできない。

「貴方が逃げ出したかったのは、それ以外の生き方を知らない貴方自身からだ」

 青年の目から、涙が溢れ出す。鎮鬼の出した答えこそが、彼にとってひとつの救いであったからだ。己の内を知ってほしい、声にならない叫びを分かってほしい、その欲求を鎮鬼は叶えた。
 鎮鬼は微笑む。彼を救うためにだ。

「貴方はやり方を誤った。でも、逃げることは、悪いことではないのですよ」

 乗り出した身を起こし、肩の力は抜く。対面した相手も同じような体勢にさせるためだ。心理道路に乗ってきた相手は、自然と同じ姿勢を取ろうとする。体を適度に弛緩させ、こちらの言葉を受け入れさせるための準備を整える。
 本当はもっと、ゆっくり時間をかけて再構築すべきなのだ。だが、今回はデモンストレーションである。手短に済ませたい。

「何もかも、白状してしまいなさい。皆の前で」

 いや、再構築というより命令言語だ。

「妹さん。仲間。友人。貴方にとっての『家族』の前で、何もかも話すのです。黙って全てを抱え込むことが責任ではない。大丈夫、貴方ならできる」

 席を立ち、青年の背後に回り込む。小さく丸まった背中を軽く叩いてやる。涙腺の堤防が決壊して、青年は鎮鬼にすがりついて泣いた。
 しばらくの間、赤子をあやすように背をなで続けた鎮鬼だが、部屋の隅にある監視カメラに向かってごく小さく二回頷くと青年からそっと離れる。間もなく係員が二人やってきて、青年を引き剥がし何処かへ連れて行った。青年は泣きやまず、廊下に出た後も彼の泣き声は部屋まで届いていた。


 鎮鬼が元の部屋に戻ってくる。先程までの観音のような笑みは消え失せ、冷徹な学者の顔に変貌を遂げていた。

「シオノ、解答を」

 部屋の一番後ろから教授が呼びかける。

「妹を強姦、その妹は娼婦、食い扶持を稼いでいるのは妹の方ってとこかな」
「正解だ。根拠は?」
「まず、最初の映像で『妹』という言葉を多用していた。その点から揺さぶりをかけようとしているのが明白でした。次に、その『妹』という言葉に対する過剰な防衛反応かな。逃避してたんでカマかけてみたら大当たり」
「妹自身ではなく、妹に関する他の人間に手を出したという可能性は?」
「確かに、その可能性も考慮しました。でも、またもや最初の映像ですが、妹自身のことに話題が集中していた。担当者の対応は情報を把握していることが前提のものだったので、まあ……勝負に出ても大丈夫かな、と」

 鎮鬼の判断材料は、大半が最初の映像からである。本人との対面はその確認作業でしかない。
 ヒントは冒頭から出されていたのだと分かっていたのはごく一部の人間だけであったようだ。塩野の解説に、自分も分かっていたのにと言いたそうな顔をしている者が数名。その他大半はただ驚くばかりである。

「今日はここまで。レポート書きたい奴は書いてこい。何にも解らん奴は、次の講義から出てこなくていいぞ」

 冷たい言葉を温かい調子で言い放ち、教授は部屋を出てゆく。遅れを取ったと悟った研究生達は鎮鬼の周囲に群がって詳しい説明を求める。内心の嫉妬を隠さないままに。
 その中でただ一人、高帆だけは質問の内容がまるで違った。

「なんで、あの時に壊さなかった」

 鎮鬼のとぼけた顔には引っかからない。高帆は追求の手を休めない。

「神への冒涜者という言葉を使ったタイミングだ。あそこから崩せただろう」
「いや、ぶっ壊しちゃ駄目でしょ。あの時点では確定してないから」
「壊す過程で情報なんていくらでも出てくる。だらだらと生かしておいても、彼のためにはならないと思うんだが」

 鎮鬼は高帆の顔を覗き込んだ。まっすぐぶつけられる視線に一瞬怯みそうになるが、高帆はこらえた。

「だったら、彼の妹も壊さなきゃ駄目でしょう。意識的か水面下は分からないけど、妹はしょっちゅうあの兄を誘ってたはずだ。依存し合ってねじくれた結果があれなんだ、片方だけ壊したってすぐに戻る。でしょ?」

 高帆は二の句が継げず黙り込む。鎮鬼はすかさず席を立った。早く帰って夕飯が食べたい。何となく、そう思ったからだ。

 解体に対して医療的義務しか抱いていなかった、と言えば嘘になる。当時の自分は高帆に負けず劣らず「解体作業」が好きだった。崩すポイントを見つけることに腐心していた。そんな自分に自信を持っていた。
 それが失敗を生む。若さだとか、経験不足だとか、そんなところに原因があったわけではない。

 悲しい思い出。悲しい悲しい、大切な思い出。


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恵みの雨に喜んだカエルは、三日三晩踊り続けたという。 頂いたサポートは主に創作活動の糧となります。ありがとうありがとう。