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「たっだいまー。今日の夕飯なにー?」
「しーちゃん……充さん見なかった?」

 小波は不安そうな顔でキッチンから出てくる。

「どしたの、充さんまだ帰ってないの?」
「うん。今日は早く帰ってくるって言ってたんだけど」

 充は時間をきっちりと守る人間である。早く帰ると言ったら必ず早く帰ってくるのだ。それに、予定が変更になったのならば電話の一本も入れるはずだ。

「どうしたのかな。まさか、会社の女の子と浮気とか! さっちゃんを差し置いて!」
「ないないない、それはない。充さん、そんな甲斐性無いもん」
「うっわさっちゃん、奥さんなのにそれヒドくない?」

 そんなことは絶対にないと分かっていながら、鎮鬼は極端な話を例に出した。対比という形で安心感を多少でも引きずり出すことができれば、と考えたからだ。

「まあ、もうちょっと待ってみようよ。急な仕事とか入ったのかもしれないし。ね?」
「……うん」


 しかし、一晩経っても充は帰ってこなかった。朝になって会社に電話をかけてみたが、出社してはいなかった。心当たりを片っ端から当たってみたが望んでいた結果は得られない。
 夜になって、捜索願を警察に出した。少々早かったかもしれないが、こみ上げてくる焦燥感に急かされた。

 捜索願を出したからといってすぐに帰ってくるわけではない。二日経ち、三日経ち、一週間経った。
 小波は少しやつれてしまったようだった。鎮鬼も普段の勢いが消え、やかましい程の家の中はすっかり静まり返っていた。何かを口に出すときは必ず充の話題だった。
 今日も帰ってこない。明日はどうだろう、帰ってくるだろうか。明日こそは、帰ってくるだろう。
 何度も同じ言葉を繰り返して、まるで舞台劇のようだった。


 そのまま二週間経った。

 鎮鬼は大学から自宅へ直行する。充がいなくなってから、鎮鬼は寄り道もせず家に帰るようになった。帰ったら、充が待っているのではないかと思ったからだ。
 随分と子供っぽい考えだ。僅かな希望論にすがる自分は随分と滑稽だ。ああ、今ならその脆い精神構造をいとも容易く木っ端微塵にできるだろうなと客観的に見つめる自分が囁く。
 お前は人のことが言えるのかい。誰よりもお前自身が脆く、か弱く、惨めな姿で細い糸にすがりついているではないか。お前が人を解体しているのは、自分が解体されることを恐れているからだ。いじめられる前に、自分がいじめる側に回ろうとしているだけだ。哀れな奴め。

 キャンパスから徒歩で二十分程度の場所に自宅はある。ドアの鍵は基本的にいつも閉めているので、中に誰かいても各自で鍵を開けて入る。充が鍵を持っていなかったら、可哀想だが玄関先で待っていてもらうしかないだろう。鍵を持っていれば良いのだが。

「たーだいまぁ……あれ?」

 家の中には誰もいなかった。電気も付いておらず、暗闇のままである。

「さっちゃーん、いねーの?」

 ダイニングキッチンの灯りを付けて、とりあえず腰掛ける。買い物に出かけたにしては時間が遅すぎる。テーブルに肘をついて、さあどうしたものかと考えた時だ。
 テーブルの向こう側、電話機がおいてあるダッシュボードの横に、一枚のメモが置いてあることに気が付いた。慌てて立ち上がり、テーブルの足につまづきながらもそれを手に取る。小波の字だった。

『しーちゃんへ。充さんが見つかりました。迎えに行ってきます』

 この文字を見て最初は喜びもした。しかしあまりに唐突だ。胸騒ぎがして、その後の文面を追う。電話をしながら急いで書いたのだろう、乱れ気味の文字で住所が書いてあった。
 その住所に、見覚えがある。

「嘘だろ、おい……!」

 メモを握りしめて、鎮鬼は灯りも消さずに飛び出した。向かう先は大学だ。走り続ければ十分強で到着する。まだ残っている学生達を跳ね除け、いつもの研究室に辿り着いた。
 研究室には解体研究のメンバーが数名残り、資料を広げている。

「どうした、塩野」

 と、先輩の高帆が英語で呼び掛けた。

「主要団体のリスト、こっちにありましたよね?」

 と、鎮鬼は日本語で問い掛けた。それに気付き慌てて英語で言い直す。言いつつ視線は棚をさまよい、該当するファイルを発見すると奪うように取り出した。地域別に分類されているページをめくり、上から必死に目で追った。そして、メモに書かれた住所と同じものを見つけ出してしまったのだ。

「どうしたんだ、塩野」

 起こってしまったことを悔やむが、そんなことをしていても発展は無い。鎮鬼は顔を上げた。

「家族が、パンテオン教団に拉致された」

 ごく最近出てきた、過激思想の新興宗教である。地域に巣食う悪を一掃するという名目を掲げ、彼らの言う正義に則って行動していると言えば多少の聞こえも良いのだろうが、実際は集団リンチに始まりチンピラを捕まえての監禁、暴行など、その暴力性が露呈してきている危険な団体だ。
 先日、充が言っていた新興宗教とは多分ここのことだ。宗教団体などというものはいくらでも金が欲しいわけで、その金蔓として充の顧客が狙われたのだろう。そして、充も金を増やすための道具として狙われた。
 いや、信者達にとっては、崇高な教えを共有したいという考えなのだろうが。

 事実を確認して飛び出そうとする鎮鬼。その彼を止める声。

「君一人で行っても、何の解決にもならんよ」

 教授の声だった。彼の言葉には逆らい難い力があり、鎮鬼はどうして良いのかわからず立ち竦む。教授の言葉は事実ではあったが、答えではないからだ。

「警察が動いている。それに頼るのが一番良い」
「でも、それでは時間が……!」
「シオノ、君は今、何を学んでいるのかね?」

 答えを突き付けられ、反論の余地もなく黙り込む。この言葉が何を指しているのか、分からない鎮鬼ではなかった。

「いいか、自分自身が地面に足を着けていなければ、人を落とし穴から引っ張り上げることもできないんだぞ」

 鎮鬼の顔が僅かに歪む。見抜かれていた。不法侵入してでも家族を連れ戻すつもりだった。だが、今それをやって何になる。たった一人で突入しても集団で囲まれて物理的に倒されるのが落ちだ。

 踵を返して、鎮鬼は家へ戻った。誰もいない家へと。


 後悔などしていない、と言えば嘘になる。大嘘だ。そのまま走っていけば間に合ったかもしれないと考えることもある。
 だが、間に合ったとしてどうなる。何ができる。
 何もできなかった。同じなのだ。今更何を思っても同じ、何を言っても同じ。現実を受け止めるより他、することはない。

 苦しい思い出。苦しい苦しい、大切な思い出。


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恵みの雨に喜んだカエルは、三日三晩踊り続けたという。 頂いたサポートは主に創作活動の糧となります。ありがとうありがとう。