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祖国でなく、違国のまま慈しむということ——『違国日記』(ヤマシタトモコ)

※そんなに詳細には書いてないですが、ネタバレには配慮していないので最終話などにも触れています。

尊重というジレンマ

先日ある取材の途中で、通りすがりの子どもと少し話すことがあった。子どもと別れたあと、同行していたカメラマンさんに「もうちょっと楽しそうにできないの?」と言われてしまった。

これにはなかなかがっくりきた。何しろ自分としてはずいぶん愛想よくにこやかに対応したつもりだったから。しかし、子どもに苦手意識があるのは事実だし、たぶん端から見たらずいぶん愛想がないんだろう。これはもうそういうふうに生きていくしかないのだ。

『違国日記』の主人公のひとりである高代槙生も、たぶん同じタイプの人間なんじゃないかと思っている。

『違国日記』は、中学3年の冬に突然両親を亡くした少女・田汲朝と、彼女を引き取った叔母・高代槙生の同居生活の物語だ。一言でいえば人見知り、家族とも折り合いがいいとは言えない(朝の母である姉とは決定的にわかり合えないままだった)槙生は、自分から引き取ったけれど、やっぱり「子ども」である朝とどう向き合えばいいかわからない、戸惑ったまま暮らしていくことになる。

僕は(槙生ほど高潔ではないけれど)自分をこの槙生に重ねるように『違国日記』を読んできた。若く健やかな小さきものを、守り、かつ尊重するとはどういうことなのか、感情の温度が低そうな見た目や振る舞いとは裏腹に、槙生はずっとドタンバタンと七転八倒を続けていた。

10巻で印象的だったシーンがある(いや、山ほどあるが)。表札を変えるシーンだ。

「高代」と掲げられていた表札が「高代/田汲」と変えられた。槙生はそれについて「あなたを尊重していない気がすると 今頃気がついて」と説明する。

実に槙生らしく、そして『違国日記』らしい場面だ。

不器用で人見知りな人物が姉の遺児を引き取り、いっしょに暮らす。そう書けばいわゆる疑似親子・疑似家族ものに思える。実際そう書いても間違いとまでは言えないが、『違国日記』はやはり疑似親子・家族とはちょっと違う手触りを持っている。

槙生は他者を他者として、自分とは根本的に異なるものとして尊重することをもっとも大事なことと考えている。それはたぶん、今時代が求める多様性みたいなものともつながっている。大きな言葉を使うなら今の時代における「正しさ」のひとつと言っていい。

だが、それは大人同士、あるいは対等でいられる人間同士の話である。親子関係は、それだけではいられない。

たとえば赤ん坊にそういうピュアな対等さを求めることはできない。「あなたの好きなように生きろ」と言ったところで、そもそも自立して生きることはできないし、厳然と他者として一本線を引くことは孤独を与えることにもなる。他者同士であるということは、孤独を受け入れ、その上でなお立つ、誰かとあるということでもある。親子はある部分では必然として一体であることを求められる関係なのだ。

もちろん親子が永劫一体であることも不健全であり、その関係はゆるやかに他者同士へと移行する。これが「どこから」ときれいに線を引けるようなものではないところに親子の複雑さがあり、衝突がある。

槙生の表札の一件はこの部分を露わにした。

朝は「高代/田汲」と名前が並ぶ表札を見て、「えーーーっへっへっへっへ」と笑う。この笑いを素直に「誇らしげ」と受け取っていいのかわからないが、ひとりの人間として扱われる誇らしさみたいなものはあったかもしれない。

一方で、槙生が自分を徹底的に他者として扱うことに対する不安も呼ぶことになる。もちろん槙生に愛情(と呼ぶべきもの)がないわけではない。むしろ敬意を持っているからこそこうしている。だが、それは「私たちは一体ではないのだ」という孤独に耐えることも要求している。ゆえに、朝は「大人になっても槙生ちゃんとこにいられる理由ってあんのかな」と漏らす。

たぶん槙生にとって誰かと一体である、あるべきだというのは呪いの類いなんだと思う。事実そうでもある。だが、子どもは単純に他者として扱えばよいとは限らない。特に終盤強くなる槙生の葛藤は、ここにある。

祖国にならずに慈しむということ

通して読んだとき『違国日記』というのは実によくできたタイトルだと思う。槙生は徹底的に朝にとって「違国=違う国=他者」である。それは救いになると同時に、朝に「祖国はどこなのか」という問いも突きつけている。

親は子どもにとって祖国だ。選ぶことはできないし、否応なくその文化・思想が土台になる。やがてそれを否定し、脱却するにしても、その脱却すべき最初のものとして大きな基盤となる。独立の大地になる。

朝はいわば難民だ。独立した国家を打ち立てるその前に祖国を失い、違国の住人となった。その難民を、一体化する(単純に祖国となる)ことなく独立させるにはどうすればいいのか、というややこしい問いを槇生は抱えている。なぜややこしいかといえば、「私たちは家族だ(=祖国であり、離れても一体である)」という単純な家族愛を、やはり槙生は肯定しないからだ。このあたりに、『違国日記』が単に疑似親子・家族ものといいがたい部分がある。

槙生が実の母であったなら、あるいは話はもう少しシンプルだったかもしれない。もちろんうまくはいかないだろうけれど、それはそれできちんと衝突する、独立元となる祖国として存在し得ただろうから。ところが、「違国」では下手な衝突の仕方をすれば(あるいは衝突すらしなくても)、ただ分かたれてしまうかもしれない。

他者だからこそ慈しめる、だけど他者だからこそ危ういという関係、ジレンマは、特殊なシチュエーションではある。そもそもが違国同士である友人や恋人とも違う。多くの人にとっては人生で一度も経験しない関係かもしれない。

それでいながら、槙生の葛藤に心揺さぶられるのは、それが「それでもやはり他者であること」、そして「他者のままで誰かを愛したい、愛せるはずだ」という勇気の物語だからだろう。

苦しく、すれ違い、傷ついたとしても、一体になることに逃げ込まず、他者のまま誰かを愛することができるはずだ、という強い意志が、私たちを勇気づける。

最終話、槙生は朝に一編の詩の形でエールを送る。言祝ぐという方がふさわしいかもしれない。

それは朝に向けられていると同時に、やはり槙生自身、そして私たちにも向けられていると思う。他者を慈しむということが本当に可能なのかわからなくても、そこへ向かうのだという力強い冒険の宣言だからだ。

僕はたぶん、この先も道行く子どもに無愛想に微笑んで、「もうちょっと愛想よくできんかね」と言われるだろう。それでも、無愛想なまま、誰かを慈しむことはできるはずだと信じようと思う。

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