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薬膳が癒やすものは何か? 『しあわせは食べて寝て待て』(水凪トリ)

『しあわせは食べて寝て待て』。

実にいいタイトルだと思う。額に入れて飾っておきたいくらいだ。

『しあわせは食べて寝て待て』(水凪トリ)は、膠原病を患ってフルタイムで働くことが難しくなり、それまでのキャリアプランを捨てなくてはならなくなった38歳の女性・麦巻さんを主人公にしたマンガだ。収入減もあり、引っ越し先を探しているときにちょっと風変わりなおばあちゃん大家と出会い、薬膳の世界に触れることになる。

この薬膳というのが作品のひとつのキーワードになっており、毎回効能などと絡めながらいろんな料理が出てくる。ショウガの入った鶏団子のスープ、アオサの乗ったとろろめしなど、出てくる料理もツボを突いていて、ついついいろいろ食べたくなる(今だと季節的にはもう少し先になるけれど)。

病気により失ったのは健康よりも自尊心

だから「食マンガか」と聞かれれば「食マンガ」ではあるのだが、私に刺さるのは食べ物そのものというより、食べることによる再生の部分だ。

麦巻さんは一生付き合っていく病気を抱えた人であり、その病気によって体調を崩しやすくなっている。もちろんそれ自体大変なことなのだけど、この作品で描かれる麦巻さんの困難は、病気を引き金に何かを諦めなければならなくなったこと、自尊心を損なってしまったことの方がより大きい。

かつては理不尽には立ち向かう強さを持っており、仕事でも活躍していたのに、難病によりフルタイムで働けなくなり、職場ではお荷物扱いされるのを目にしてしまう。そろそろマンションを買おうと思っていた彼女が、収入減から家賃の安いところへの引っ越しを余儀なくされる。さらには38歳という年齢と独身であることに対して、「結婚でもしていれば」という言葉が投げかけられる。

彼女が病気で失ったのは単に身体的な健康だけではなく、自信や誇りでもあるのだ。

薬膳は麦巻さんの何を癒やすのか

『しあわせは食べて寝て待て』が面白いのは、そんな彼女の状況を食・薬膳が少しずつ回復させるところだ。しかもそれは薬膳による身体的な回復ではない。

この作品の薬膳との距離感は非常にほどよい。薬膳の効果は認めつつ、「個人差やそのときの状況によっては効くこともあれば効かないこともある」と描くし、「薬膳を絶対視してそれだけで病気を治そうとするのは危険だ」という示唆もする。あとがきを読むと、このあたりは作者の水凪トリさん自身の経験が反映されているようだ。「薬膳がすべて解決!」となっていないところが心地いい。

同時に、薬膳との出会いは麦巻さんの体調を確実に整えている。それは、薬膳自体の効能というより、薬膳を通した人との出会いや、食べることを楽しむことによる回復だ。

風邪に効くスープをもらって食べるシーンでは、効く・効かないよりも温かいものを大事に食べる幸せが強調されている。どの食材が何に効果があるか説明する青年・司くんが、大家の鈴さんに「うんちく聞かされてると料理がまずくなるのっ」と一喝されたりもする。

喉を潤す効果があると聞いて杏のドライフルーツを食べる場面も、即効性があるものではないと教えられているにもかかわらず、口に含んだ瞬間、麦巻さんは笑顔になる。

「食べて寝る」という自分へのいたわり

「食は大事」というのは年々痛感するようになってきた。私の場合、それは「身体にいいものを食べて健康になる」ということと似ているけど、ちょっと違う。

人は苦しい時期、食がおろそかになりがちだ。忙しくてとりあえず口に何か入れるだけで済ましてしまうということもあるし、経済的理由から必要最低限ばかりをめざすこともある。作中の麦巻さんもおそらくそうで、料理ができないわけではなさそうだが、薬膳と出会う前の食事シーンで描かれるのは、さっとコンビニのサンドイッチで済ませたり、とりあえずカップ麺やコンビニ弁当を買ってきたりする様子だ。

こんなとき、人は食べることに手間をかけたり、お金をかけることが「自分には贅沢だ」と感じてしまったりすることもある。だけど、それは自分をぞんざいに扱うことであり、困難な状況をより苦しいものにしてしまう。

思うに不幸というのは、困難そのものではない。困難によって気力や幸福感を失った状態こそが不幸なのだ。

どうにもできない困難は、人生にままある。がむしゃらささえ削り取られ、立ち向かう気力すら湧かないときもある。

『しあわせは食べて寝て待て』というタイトルには、そういうときに大事な知恵が詰まっているように思う。

食べるという、もっとも身近で日常的にできる自分へのいたわりを取り戻すこと。身体にいいものを食べること自体より、そうやって自分自身をいたわること、いたわろうとすることが幸福になるために重要なことなのだ。

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