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何をもって最善とするか

俺のクライアントに動物病院がある。

病気のわんこ。手術すれば病気を治せるはず。だけどわんこの年齢的に手術はハイリスク。手術はせずに薬飲んだりして穏やかに暮らすほうが良いかも知れない。

みたいなケースが結構あるらしい。獣医師さんも看護師さんも目の前にいるわんこの病気を治したいと思ってる。病気を治して元気になって欲しい。だけど病気を治さない方がわんこにとって幸せなことかも知れない。

飼い主さんとしっかり話し合って最善を探るのだそうだ。この場合何をもって最善とするのか、とても悩ましい。

まったく違う例え話だけど、ノーアウトランナー1塁。次の打者は自分がアウトになることと引き換えにランナーを2塁に進塁させる。いわゆる犠打。送りバンド。あくまでランナーが2塁にいることを最善と考える作戦。

それだけじゃなく、ひょっとしたら次の打者は過去3度の送りバンドを失敗しているため自信を取り戻させようと再度送りバンドの指示を出したのかも知れない。この場合の最善は次の打者が自信を取り戻してくれること。

人は未来を展望するとき、最善でありたいと考えるものだ。最善を妨げるであろう因子を取り除いたり予防線を張ったり、最善のためにいろいろ手を尽くす。

その、今考えている最善が、本当に最善であるのかについて、考え直せる人は案外少ない。自分が何をもって最善としているか、の、「何」にあたる部分を見逃したまま最善を考えている気になっているだけのことも、これはものすごく多い。いわゆる視野狭窄。

ほかにもそれまでの考えを改めたくないだけだったり、失うものが大きいような気がしたりして意固地になってしまったり。

何をもって最善としていますか?

世界のゴキゲンが増えるといいなって考えたりしゃべったり書いたりしてます。ありがとうございます。