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置かれた場所で咲かなくていい

「置かれた場所で咲きなさい」
その本を読んだときに腑に落ちなかったことがある。
それが、置かれた場所がつらくて苦しい場合はどうなんだということ。
どんなに苦しくても、どんなにつらくても、
そこで咲けるようにがんばりなさい。
そういう意味なのかと、内心で腹を立てた。

日本は自殺者の多い国である。
それは個人の問題だけではないはずだ。
社会、ひいては国の問題ではないだろうか。
変わってきてはいるが、
それでもトップダウンがあたりまえの企業体質、
出る杭は打たれるという社会。
外国というのは、わりかし個人の意見や考えが尊重されるけれど、
日本はどうだろうか。
上司の命令は絶対という企業も、まだまだ多いのではないだろうか。
そんな「個」が認められないなかで、
どうやって自分らしく咲いたらいいのだろうか。
咲けたとしても手折られたり、踏み潰されることもあるだろう。
それでも、置かれた場所で咲くという行為が
果たして必要なのだろうか。

わたしはキリスト教徒ではないので、
著者である渡辺和子さんの言わんとしていること、
本質はわからない。
もちろん年代が違えば捉え方も様々である。
けれど、わたしは納得できなかったのだ。
置かれた場所でがんばって、がんばって、
そして命がなくなってしまったらどうするのだと。
だからこそ、置かれた場所で咲かなくてもいいと、
そう思ってきた。
心が折れそうになるほどつらいなら、
生きているのが嫌になるほど苦しいなら、
逃げてもいい
じゃないかと。
そこに自分を置く意味はあるのかと。

そんなわたしの声を代弁するかのように、
森みさきさんが自身のライブで言ってくれた。
「置かれた場所で咲かなくていい」と。
「自分が強くいられる場所に移動していい」と。
その言葉を聴いたとき、やっぱりそうだよなと感じた。
確かにたんぽぽも蕗の薹もコンクリから目を出すけれど、
それは、それだけの生命力があるから。
たとえば薔薇や百合は
コンクリからは目を出さないのではないだろうか。

人には、それぞれに咲ける場所があるはず。
性格や体力、生きてきた環境が、誰一人として同じ人がいないように。
どこでも逞しく生きていけるだけの力を持った人もいれば、
限られた環境のなかでこそ花ひらく人もいる。
それは決して優劣ではない。
ただの個体差だ。
どこでも生きていける人にだって、
より輝ける場所があるはずなのだ。
それであれば、一つ所に縛られる必要が
どこにあるだろうか。

一人ひとりが輝ける場所を見つけて、
自分の花を咲かせていけたなら、
世の中はもっと優しくなるはずだ。
もちろん、勝手な持論でしかないが。

与えられた場所だからと、
これが自分の置かれた場所だからと、
自分を苦しめる必要なんてない。
誰も自分の人生や命を肩代わりはしてくれない
自分の花を咲かせられるところを探せばいい。
自分らしく生きられる場所を探せばいい。
それは決して弱いからでも、未熟だからでもない。

こんなことを書いて不愉快に思う人もいるかもしれない。
自分は置かれた場所でがんばっているのにと。
みんなが好き勝手に行動したら世の中は回らないだろうと。
でも、それでダメになるなら、そういう運命だったというだけだ。
そもそも、企業の運命を、学校の運命を、国の運命を、
そんなものを個人が背負う必要なんてあるのだろうか。
経営者や役員となれば話は別だが。

結局は「自分がどうしたいか」でしかないのだけれど、
いま置かれた場所で苦しいなら、つらいなら、
置かれた場所を自分から出ていくのもアリだよね。
ということだ。
自分が自分らしくいられる場所を探していこう。
より輝ける場所へ、移動していこう。
みさきさんのライブを拝見して、
そんなことを改めて思い勇気づけられた。

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