役割を持つということ

少し前から仲良くしてもらっているTwitterのフォロワーさんとご飯に行った。

彼女と出会ったのは趣味関連のアカウントで、年齢、今までしてきた(そして今している)仕事が似ていることもありすぐに仲良くなった。あたしの実家から行動圏内である名古屋にほど近いところに住む彼女と、一度会おうという話がするりと飛び出すぐらいには。

お酒が好きでフットワークの軽い人間というのはとても信用が置けるし、ある程度の期間接客業に従事している人間はとても信頼が置ける。電話での話ぶり、そこに滲む彼女の人柄、気遣いに、あたしはとても惹かれていた。

電話口で可愛らしい声を聞かせてくれるのは、もうすぐ二歳になる彼女の娘さん。竹を割ったような性格をその甘い声とまろやかな口ぶりがマイルドにしている彼女が溺愛しているお姫様。

今をときめくF1層のオタクであるあたしと彼女。趣味とめしのたねと他人への接し方のよく似ている我々を明確に分かつのは、「あたしは恋人もいない学生であること」「彼女は旦那さんのいる子供を持った女性であること」、この点だった。

あたしはほとんど学生時代の人間関係を切り捨ててしまったしその友人たちも大学へ進んだ子が多い。20代半ばでも、子供はおろか結婚すら夢物語、という女ばかりだ。もちろん、あたし自身を含めて。

大人になってから、小さな子供を間近にすることはほどんどなかった。
その小さな手のひら、丸い瞳、そして初対面の怪しい女にほかならないあたしに対してちっとも人見知りをしないことにいちいち驚いたし、そのいちいちを笑みを持って見守る彼女はとても大人に見えた。

当たり前か。彼女は、あたしの友人だが、あたしの母と同じく、この小さな女の子の母なのだから。

あたしより10cmは背が低い彼女が、二歳になる女の子を易々と抱えあげ、ぐずるのを宥め、あっという間に抱っこ紐の中へおさめてしまうのには目を見張った。まるで魔法のようなその手つきは、しかし彼女と、彼女の娘の、二年の奮闘を物語っていた。

ランチを取りながら(あたしと雑談をしつつ、あたしが自分の食事を終えるのと同じ時間で、彼女は彼女と娘さんの食事を終えたのにも頭が上がらなかったのでその野菜がたくさんのビュッフェ(娘さんはあたしに「おいしいね!」と元気に宣言し、うどんを平らげた)はご馳走した)、最近の推しの話、フォロワーの噂話、流行病、仕事のことについてなど、取り留めもなく語る内容は大学の友人とも、唯一の親友と感じている中学同期(未婚の女だ、みんな)と語る話と何ら変わらない。

それでも、うどんを元気に鷲掴みする娘さんの手を拭いたり、フォークできゅうりを口に運んだり、倒しそうになった椀は先回りして取り上げたり、そういったことをあたしがサラダを咀嚼し、お茶を飲んでいる間にさらりとやってのけるのだ。

母は偉大、だなんて、あの鮮やかな手管の前ではチープすぎる。母は、子と共に母になるのだとすれば、彼女が「母親」になったのだって、この二年以内なのだし。そもそも、彼女は、待ち合わせ場所のゲートタワーまでその娘さんを連れて二人で電車でやってきている。通勤で慣らしてるしね、となんともないふうに言ってあたしにお土産だとワッフルを渡してくれる、その小さな背丈がとても大きく見えた。

娘さんの話をするなら、とにかくエネルギッシュで、とても可愛らしくて、当たり前だけど下手に触れたら簡単に怪我をさせてしまうだろうと思った。だけどもそれこそ彼女と、ご主人と、そして電話口から時々聞こえてくる優しそうなおじい様とおばあ様に囲まれ、愛されていることが伝わってくる。元気だけれど、しっかりママの言うことが聞ける。日頃しっかり、目を向けられているのだなと感じた。

だけれど、彼女と娘さんと合流し、ランチを食べ、カラオケに移動して彼女とぽつぽつ話をして改札前で別れた時、あたしはどっと疲れてしまった。普段、20歳を超えた人間に向けているのとは違う、それより大きな気遣いが必要だった。彼女の気遣い(と、電話口と変わらない話言葉、初めて見た笑顔)のおかげで初対面とは思えないほど楽しい時間だったが、彼女が御手洗に立った五分間、スマホで童謡を聞く娘さんを見ていた時(ほんとうに、見ていただけ。ママ、と一言呟いたけど、あの子はとても良い子にあたしとお留守番をしてくれた)、娘さん以上にあたしの方が「ママ、早く帰ってきて…!」と切望していただろう。

そもそも接し方が分からず、生の匂いが苦手で退廃を好み、前提として子供を望まない(ステレオタイプな「家庭」すら、将来のパートナーには求めない)あたしに、二歳の誕生日も迎えていないその子の相手は骨が折れた。地元の駅まで車で送ってくれた母が冗談交じりで言った「あんた子供なんか苦手やん」という言葉は、そっくりそのまま事実だったのだ。「そうでも、五時間一緒に過ごすだけの社交性ぐらい持ってるわ」というのも、また事実だったけど。

大変だよー、と話しながら、それでも娘さんの手を引き、笑顔には頬擦りとキスで返していた彼女。最後に高宮ちゃんにバイバイは、と促されて、振ってくれた小さな手のひら。自分のことは後回しだよ、と言いながら、綺麗に化粧を終わらせてきた可愛らしい彼女。

あたしが、想定もしていなかった幸せは、こんな身近にあるのだということを学べた半日だった。幸せというのは、それこそあたしなんかには想像出来ない努力の上に成り立っているのだと。

母という役割。友という役割。どちらも完璧にこなして見せる彼女は、やはり相互フォローになった時からあたしの憧れだ。

自分はでも、そこまで自分と別の人生を持つ、一人の人間(家族は、幼くとも子供は、自分と別の人生を持つ一人の人間だ)に血道を注ぐことは出来ないなあと実感した。少なくとも、今は。自分の子供を持つだなんて、例を見たらもっともっと実感がわかなくなってしまった。


お土産の袋に忍ばせてもらっていた小さな手紙を読んで、そんなことを考えている。

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