『Araby』和訳

著:ジェームズ・ジョイス
『ダブリン市民』より


「編集履歴」内で表記を間違えていたので修正しました(2024.9.7)。

アラビー

 ノース・リッチモンド通りは、行き止まりになっていて、静かな通りだ──クリスチャン・ブラザーズ中学校から少年たちが下校する時間帯はその限りではないが。二階建ての空き家が、隣家から離れて、行き止まりの端にある四角い敷地に建っていた。この通りにある他の家は、まともな生活を気にして、その茶色い壁をぴくりともさせずに、互いをじろじろと見ている。

 我が家の前の住人であった司祭は、奥にある客間で亡くなった。長い間閉じこめられていた、かび臭い空気が、どの部屋にも漂って、台所の後ろにあるゴミ部屋は、古くて役に立たない本で散らかっていた。その中から、私は、紙製のカバーで、ページが丸まって湿っている本をいくつか見つけた。ウォルター・スコットの『僧院長』に、『敬虔なる聖体拝受者』に、『ヴィドーク回想録』。私は、紙が黄色かったから、最後のが好きだった。家の裏にある、手入れしていない庭には、真ん中にはリンゴの木が一本、そして低木が何本かあって、その下から、私は前の住人の自転車用の錆びた空気入れを見つけた。あの人はとても慈悲深い司祭だった。遺言にはこうあった──自分の金は全て養護施設に、自分の家具は全て妹に残す、と。

 日が短い冬が来ると、夕飯を食べきってもないのに、夕暮れが来る。友に通りで会ったときには、頭上の空の紫色が変わり続け、そこに向かって街灯が弱々しい灯りを掲げていた。冷たい空気が私たちを刺すので、みんなで体が火照るまで遊んだ。私たちの騒ぐ声が静かな通りに響く。遊んでいるうちに、暗くてぬかるんだ小道に入ると、荒々しい部族が、周りにある小屋から出てきて、私たちを袋叩きにする。小道を抜け、いつの間にやら、じめじめした庭の裏口まで来ていた──そこの灰溜めから、匂いが立ち上がっている。さらに奥へと誘われると、暗くて臭い厩舎では、御者が馬を梳かしてさらさらにしたり、金具の付いた馬具を振るって音を奏でたりしている。通りに戻ると、台所から漏れる光が地下勝手口を満たしていた。私の叔父が角を曲がるのを見て、無事に家に入るまで、私たちは陰に隠れる。マンガンの姉が弟に、お茶しよう、と呼びかけ、通りをきょろきょろと見渡すのを、私たちは陰から見た。彼女が玄関口に残るか、家に入るか、様子を見ていたが、ずっと立っているようなので、諦めて陰から離れ、マンガンの家の上がり框に歩を進める。彼女は私たちを待っていた──半開きのドアの向こうから逆光を浴びて、その輪郭がくっきりと見えた。彼女の弟は、言うことを聞く前に、いつも彼女をからかう。私は、柵の側に立って、彼女を見つめていた。彼女が体を動かすと、ワンピースが靡き、編まれた柔らかい髪が右へ左へと揺らめく。

 毎朝、私は、表にある応接間に寝そべって、彼女の家の玄関を眺めていた。ブラインドは引き下げられ、窓枠との隙間は一センチほどしかなかったから、中は見えなかった。彼女が玄関先に現れると、私の心は飛び跳ねた。私は、本を掴み、玄関へと走って彼女を追いかける。茶色い服を着た彼女を見失わないように後ろについていたが、道が分かれる角に近づくと、私は歩調を速めて、彼女を追い越した。こんなことが毎朝あった。私は二言三言そっけない会話を交わしたくらいで、彼女とはほとんど話したことがなかったが、それでも、彼女の名前を聞くと、愚かな血が召喚されるようだった。

 ロマンスにきっぱり相対するような場所であっても、彼女の姿が付きまとってきた。土曜日の夕方、叔母が買い出しに行くときに、私も、荷物を持つのを手伝うために行かなくてはならなかった。私たちは、烈火に包まれた通りを歩いた──酔っぱらった男と客引きする女がひしめき、労働者は罵倒に囲まれ、豚の頬肉が入った樽を見張る店員は甲高い声で連祷を唱え、辻音楽師は鼻声でオドノヴァン・ロッサについての俗謡を歌ったり、バラード調で我々が生まれた土地の問題を歌い上げたりしている。騒音の中で、私は、ただ一つの感覚に意識を集中させた。それは、聖杯を運びながら、敵の群れを無事に通り抜けるような感じだった。私自身も理解できないような、得体の知れない賛美と祈りの時間に、彼女の名前が口を衝いて出る。私は、しきりに瞳に涙を湛えた(自分でもなぜか分からない)──それは、ときおり、心の臓からあふれた何かが胸を濡らすようにも見えた。将来のことは、ほとんど考えていなかった。彼女と話すことができるのか、そもそも、話せたとして、この、こんがらかった崇拝を、どうしたら伝えられるのか──私には分からなかった。まるで私の体はハープである、そして彼女の言葉と所作が、その弦を走る指なのだ。

 ある晩、私は、司祭が亡くなった奥にある客間に足を運んだ。暗い雨の夜だった。家には物音ひとつ無い。壊れた窓ガラスの向こうから、雨が地面を叩くのが聞こえた──細い水の針が、水浸しの家庭菜園の畑で遊んでいる。遠くから、電灯だか窓ガラスから漏れた光だかが、私の目の前を薄く照らした。あまり見えていなかったから、助かった。全ての感覚が膜に覆われようとしているようで、今にも感覚から滑り落ちそうな心地だった。私は手のひらを合わせた──手が震えてくる。私は呟く──おお、愛しのあなたよ! おお、愛しのあなたよ! 何度も呟く。

 ついに、彼女が私に話しかけた。彼女から一言目を投げられたとき、私はとても狼狽えて、何と答えていいのか分からなかった。彼女は私に、アラビーに行くつもりか、と訊いてきた。はい、と答えたのか、いいえ、と答えたのだったかは、覚えていない。壮観な慈善市になるはず、と彼女は言った。彼女はなんとか行きたいようだった。

 ──なら、どうして行けないんですか? 私は訊いた。

 彼女は、話しながら、手首につけた銀のブレスレットをくるくると回した。彼女は言った──その週は修道院で静修日があるから行けないの。彼女の弟と男子ふたりが帽子取りゲームをして遊んでいた。私はひとりで柵にいた。彼女は忍び返しに手を置いて、私にお辞儀した。ドアの正面にある灯火の光が、白い首の曲線をとらえ、そこへかかった髪を照らし、柵に置いた手を照らした。光はワンピースの片側に落ちて、ペチコートの白い境界線に当たった──彼女が楽な姿勢を取ったとき、ちょうど見えてしまったのだ。

 ──君が来ても良いよ、彼女は言った。

 ──行くときは何か持っていきます、と私は言った。

 なんともすこぶる愚かなことだ──私は、その夜から、起きているときも眠っているときも、頭がバカになってしまった! 約束の日までの冗長な日々を消し去りたい。学校の勉強が嫌になった。夜は寝室で、昼は教室で、彼女の姿が、私が頑張って読もうとしたページと私の間から、やってくる。静かなときは、アラビーという言葉の一節一節を頭に浮かべる──静寂の中で、私の魂は生い茂り、東洋の魔法にかけられる。土曜日の夜に慈善市に行くため、休みを申し出た。叔母は驚いて、フリーメイソン絡みの事件でないことを祈った。あまり授業で手を挙げて答えなくなった。先生の顔つきは穏やかだったのに、厳しくなっていく──先生は、私が怠け始めないことを祈っていた。私は、ふらついた思考を呼び戻すことができなかった。人生の要とされることに取り組んできたが、今や、私と私の欲望の間に立ち塞がるそれが、子どもの遊び、それも醜く単調な子どもの遊びに思えた。

 土曜日の朝、私は叔父に、夕方には慈善市に行きたいともう一度伝えた。彼は、ポールスタンドで、帽子用ブラシを探して騒いでいた。そしてぶっきらぼうに言った。

 ──ああ、はい、分かっているさ。

 彼が廊下にいたので、私は、表にある応接間に行って窓の近くで寝そべることができなかった。不機嫌になって外に出て、学校へゆっくりと歩き始めた。無慈悲にも空気は湿気寒く、すでに不安になってきていた。

 私が夕食をとりに家へ帰ると、叔父はまだ帰ってきていなかった。とはいえ、時間はまだあった。私は、しばらく座って時計を見つめていたが、カチカチという音に苛立ちを覚え、部屋を離れた。私は、階段を上って、一番上の階まで来た。天井の高い、寒くて、誰もいない空間が私を解放した──私は、歌いながら部屋から部屋へと歩き回った。正面にある窓から、下の通りで遊んでいる仲間たちが見えた。彼らの叫びは、私に届く頃には、弱々しくなって、何と言っているのか分からない。私は、冷たいガラスに額をくっつけて、彼女の住んでいるくらい家を眺めた。一時間ほどそこに立っていただろうか──灯火の光がそっと、私の空想が作り出した、茶色い服の人の、曲線を描く首や、柵に置いた手や、ワンピースの下の境界線に、触れているだけだった。

 階下に戻ると、マーサ夫人が暖炉の前に腰かけていた。夫人はおしゃべりな老婦人、そして質屋の未亡人で、慈善活動のために、使用済み切手を集めていた。私は、お茶の席での噂話に耐えなくてはならなかった。食事は一時間以上も延びたが、それでも叔父は来ず、マーサ夫人は立ち上がって帰る準備をした──これ以上叔父さんを待てないのは残念だけど、もう夜の八時を過ぎているし、夜の空気が体に悪いからね、遅くまで出歩くのは好きじゃないの。彼女がいなくなると、私は、拳を握りしめながら、部屋を行ったり来たりした。叔母が言った。

 ──あいにくだけど、今夜の慈善市に行くのは、また今度ね。

 私は、九時に、廊下から、叔父が鍵を開けたのが聞こえた。それから、彼が独り言を言っているのを聞き、オーバーコートの重さを受けて、ポールスタンドが揺れる音を聞いた。私には、この意味が理解できた。彼が夕食の途中だったとき、私は、慈善市に行くためのお金をくれ、と言っていた。彼は忘れていたのだ。彼は言った。

 ──もう、人々はベッドに入り、眠りについた頃だぞ。

 私は微笑まなかった。叔母は、力強く彼に言った。

 ──お金をあげて、連れていってあげたらどうなんです? 現に、こんなに遅くまで、この子を待たせておいたんですから。

 叔父は、忘れていて申し訳ない、と言った。そして、「よく学び、よく遊べ」という諺を信じている、と言った。彼が私に、どこへ行くのか、尋ねてきた上、二回も話したのに、『アラブ人とお気に入りの馬との別れ』を知っているのか、と訊いてきた。私が台所に行くと、彼は、この詩の冒頭の節を、叔母に朗読しようとしていた。

 私は、フローリン銀貨を手にしっかりと持ち、バッキンガム通りを歩いて、駅に向かった。買い手で賑わい、ガス灯でギラギラと光る、通りの光景を見て、私は、遠出の目的を思い出した。私は、人っ子ひとりいない三等車の席に着いた。電車は、見過ごせないくらい遅延した後、駅をゆっくりと出発した。荒れた家の間を這って、きらめく川を越えて進む。ウェストランド・ロウ駅では、大量の人々が車両のドアに押し寄せた──しかし、駅手たちが、これは慈善市行きの特別列車だ、と言って、押し返した。私は、一人で、がら空きの車両に残った。数分して、電車は仮説木造プラットフォームの側に停まった。道に降り立ち、明かりのついた時計の文字盤を見ると、十時まであと十分だと分かる。私の目の前には、魔法の名前を掲げた、大きな建物があった。

 六ペンスで入れる入り口が見つからず、慈善市が閉まってしまうのではないかと心配になり、急いで入場ゲートから中に入ると、疲れた様子の男に一シリングを手渡した。気がつくと、私は大きな会場にいた──天井までの高さから半分のところに、ぐるっと二階席がある。ほぼ全ての屋台は閉まり、会場の大部分は闇に包まれていた。これは、礼拝式の後に教会に広がる沈黙と同じだ。私は、びくびくしながら、慈善市の中心へと向かった。まだ開いている屋台がぽつぽつとあって、その周りに数人が集まっている。「Caféカフェ Chantantシャンタン」と色とりどりの電飾で書かれた暖簾の前で、二人の男が、トレイに置かれた金を勘定していた。私は、小銭が落ちるのを聞く。ようやく、なぜここへ来たのかを思い出して、私は、屋台の一つへ足を踏み入れて、磁器の壺や、花の描かれたティー・セットを物色した。屋台の入り口で、若い婦人が、若い紳士ふたりと話したり笑ったりしている。彼らは、イングランド訛りだった──私は、ぼんやりと、彼らの会話を聞いた。

 ──おお、そんなこと言ってないわ!

 ──おお、いいや、確かに言った!

 ──おお、でも本当に言ってないの!

 ──彼女はああ言っていただろう?

 ──はい。彼女の声を聞きました。

 ──おお、それは……しょうもない嘘ね!

 私をじっと見ると、若い婦人は、こちらへきて、私に、何か買いたいものは無いか、と尋ねた。その声の調子からは、買わせてやろうという意思は伺えなかった。義務感から話しかけてきたようだった。私は、東洋人の番人のように、暗い入り口の左右に立っている大きな壺を、慎ましやかに見ながら、呟いた。

 ──いいえ、結構です。

 若い婦人は、片方の花瓶の位置を変えると、若い男ふたりのところへ戻った。彼らは、さっきと同じ話題について話し始める。一度か二度、若い婦人は、後ろにいる私を、肩越しに見た。私は、彼女の屋台の前に長居していた──ここにいてももう無駄だと悟っていたが、ここの商品に本当に興味があるように見せたかった。それから、私はゆっくりと背を向けて、慈善市の真ん中を歩いた。手の力を抜くと、ペンス硬貨二枚が、ポケットに落ちて六ペンス硬貨にぶつかった。会場の片隅から、消灯、というかけ声が聞こえた。会場の上の方は、今や真っ暗だった。

 暗闇をぼーっと見上げていると、気づいてしまう──私は、自惚れに煽られ、嘲られたのだ。痛苦と憤怒で、私の瞳は燃え焦げた。

編集履歴

イングリッシュ訛り→イングランド訛り(2024.5.6)
ダブリナーズ→ダブリン市民(2024.5.6)
Café Chantantカフェ・シャンタンCaféカフェ Chantantシャンタン(2024.9.7、フリガナの振り方)
我が家の前の住人であった司祭が、奥にある客間で亡くなった。→我が家の前の住人であった司祭は、奥にある客間で亡くなった。(2024.9.8、助詞)

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