デモ・ストライキには意味がない?

 デモ・ストライキなどの社会運動は無意味・効果がない、のだろうか。

 社会運動を、その目的によって2種類にわけてみよう。

1:運動そのものと目的が近くないもの。たとえば、パレスチナ関連のデモ。ガザにおける即時停戦を求めるデモが東京で起きたとしても、それは、即座に停戦にはつながらない。そのような意味で、この運動と目的は「隔たっている」といえる。

2:運動そのものと目的が緊密であるもの。たとえば、2023-2024年に格安航空会社「jetstar」の労働組合が行っているストライキ。これは、未払い賃金の支払いを求めるもので(スト中の労働者解雇への反発という意味もあるが)、ストライキそのものとその目的=賃金要求、とがかなり密接な距離関係にある。

 2つめの運動と目的が近いタイプのものにおいては、運動そのものの性質も特徴的である。このタイプの運動では、ストライキが直接に雇用主・顧客に迷惑をかけるもので(この表現はポジティブな意味である)、それゆえに、運動が直接に目的達成につながりやすい。
 この「迷惑」は社会運動において重要なものである。社会運動は「迷惑」をかけるからこそ、よりつよくいえば、「迷惑」をかけるというその一点においてこそ、有効なのである。社会運動は、なんらかの要求・主張を明示的な仕方で表明し、かつ、その要求・主張が通らなければ損失が生じることを示すものなのである。
 2つ目のタイプの、運動と目的が結びついたタイプについては、「効果がない」という批判は当たらない、といえるのではないだろうか。

 問題はむしろ、1つ目のタイプの運動、その運動を行うことが運動の要求を通すこととつながらないタイプのもの、に対する「効果がない」という批判をどう考えるかである。
 最悪の応答は、批判にたいして、「効果がある」と答えてしまうことである。このような応答は現実の分析が端的にまずい。
 したがって、まずは「効果がない」ということを認めることから始める必要がある。国会前で脱原発を要求するデモを行うことは、そのデモがみずからの要求を即座に通すことにつながらない、という意味においては「効果がない」。一般にいって、なんらかの「社会問題」にたいする社会運動は「効果がない」。私はまずこのような前提からスタートする。
 だが、上記のことからは、その種の社会運動が「完全に意味がない」とは言えない。いかにそのことを3つの観点から述べたい。

 まず考えたいのは、社会運動のうちがわの人たちにおける「効果」である。たとえば、日本において、別の国で起きている弾圧にたいするデモがあったとしよう。当然、この運動は当該の弾圧を停止させる効果をもたない。だが、この運動はさまざまなメディアをつうじて、弾圧が起きている国の、弾圧を受けている人たち・その近辺の人たちに伝わりうるだろう。あるいは、こうした運動の指導的立ち位置にいる人々は、当該弾圧の当事者・当事者に近い人々であることも多い。そうした場合には、より容易に、運動は当事者たちのもとへと伝わるだろう。弾圧を受ける当事者たちは、日本での運動そのものによって救われはしない。しかし、「外国でもこの問題に関心をもち声を上げている人がいる」という事態は希望となるのではないだろうか。少なくとも、諸外国で一切の運動がないよりは(つまり最悪の事態)に比べれば、「まし」ではないだろうか。その場合、運動への参加者が、100人よりは1000人のほうが、1000人より10000人のほうが、より希望となるではないだろうか。
 人間の純粋な「数」というのは思いのほか大きな効果があるのである。このような、「心情的」でしかない効果は過大評価してはならない。「心情」と「現実」のあいだにはつねに超えられない溝がある。だが同時に、このような「心情」の次元を消去してしまうことも適切な態度だとは思えない。人間には「心情」の次元がたしかに存在しているからである。

 つぎに考えたいのは、空間的・時間的により広い次元での「効果」である。世界には非常に多くの社会運動がある。それらは相互に異なった目的を有しているであろう。とはいえ、そこには既存の体制への抵抗、周縁化された人々を守ること、といった共通性がある。そして、このような「周縁性」のどれかに、人は含まれているものである(もちろんあらゆる周縁性と無縁である場合もあろう)。
 たとえば、男性でヘテロセクシュアルで日本国籍で(いわば「下駄」を何段も履いている人)であっても、長時間の労働を余儀なくされていることはある。このような場合彼は、労働運動の少なくとも潜在的な担い手である。 
 この立場から、種々の社会運動に「ゆるやかな」連関を認めてみよう。ある運動はほかの運動と「潜在的」につながっている。一つ一つの運動は即座の効果をもたないとしても、運動が相互に結びつき、一つの運動の参加者がほかの運動にも参加していれば、運動参加者の、すなわち、周縁的な人々の、ゆるやかなネットワークが形成される。このネットワークが広く、大きく形成されていれば効果は絶大である。
 たとえば、1979年にイランで起こった「革命」を考えよう。この革命は、強権的な王権にたいして、イスラム指導者を中心とした民衆が蜂起し、王を国外へ追放、イスラム国家を誕生させたものである。この革命における最大のアクターこそ、「ネットワーク」にほかならない。イランは、東西の交差地点にいるという地理的特性から、西洋諸国による近代化をつよくは受けなかったという歴史的経緯があった。それゆえに、イランにはイスラムの伝統的な商業的ネットワークが強く残存し、王権への蜂起はこの広く大きなネットワークを介して爆発的に拡大した。
 したがって、運動のあいだに「ネットワーク」を形成しておくことは、「効果のある」(つまり、即座の効果のある)運動を準備するのに欠かせないのである。このようなネットワークは数か月や数年でつくれるものではない。
 それは、筋トレをした次の日に肥大した筋肉を得られるわけでも、一晩勉強したからと言ってテストで高得点がとれないことと同じような話である。「すぐに効果のあるもの」はない、というのはごく一般的な教訓であろう。

 最後に、そしてこれこそもっとも重要であると私には思われるのだが、運動そのものに内在的な側面を考えてみたい。フランスのデモは、世界で起きる運動のなかでも大規模なものが多く、レピュブリック広場やエトワール広場などが多数の人で埋まっている写真・動画を見た人は多いのではないだろうか。フランスでは、大規模なものでもは数十万規模、数万人規模のものも多く、数千人規模のデモはしばしばみられる。
 日本では全共闘以後、大規模な社会運動はみられなくなっている。60年代の社会運動の最盛期、その後の内ゲバ、日本赤軍の一連の活動、等、日本特有の歴史を考慮する必要があるものの、現代日本の若年世代にとって社会運動は遠いものである。それゆえ、デモのなかで、デモの最中で起こっていることを想像することはむずかしいと思われる。
 だが、デモというものを「主張・要求・イデオロギー」という抽象性・概念の次元においてではなく、物質的な次元で考えてみてほしい。
 つまり、14時開始で汐留駅開始・国会議事堂前終点のパレスチナ支持のデモがあるとしよう(私は東京の地理に疎いのでそのようなルートが現実的かどうかはわからないが)。季節は4月で、土曜日。さて、そもそもデモは14時にはじまるだろうか。参加者が何人かわかっているわけではないし、遅れてくる人もいるだろうし、そもそも街中で行われることがぴったりとはじまるはずがない。はやめに着いた人たちは、「いつ始まりますかね?」と会話をかわすだろう。おそらくは、2, 30分遅れで行進がはじまるだろう。だれかが、音楽をながすなり楽器をならすだろうし、パレスチナへの連帯を表明する声かけもあるだろう。当事者に近い人のスピーチもあるかもしれない。そうした声に耳を傾けるだろうし、そろってアジテーションに応答もするだろう。だが、2時間(おそらくは3時間を超える)である。2時間もずっと立った状態で声を出し続けること・集中し続けることは、多くの人にはそう簡単にはできない。となりにいる人と、もちろんパレスチナの話もするだろうが、どこから来たか、なにをしているか、そういう「たいしたことのない」話もするはずである。もしかしたらデモ中に電話がかかってきたり、恋人から急を要するようなLINEが届くかもしれない。
 つまり、「デモ」というものの経験は、その理念・イデオロギーの水準だけでなく、語の純粋な意味における「物質的な」側面をも含んだものである。私は、デモの参加者がデモで問題となっていることをひたすら真剣に考え続けるような運動を理想だとは考えない。それは、端的に不可能である。
 デモには、あえてそのような言い方をすれば、かならず「異物」=デモとは関係のないもの、が混じっている。そして、このような「異物」は、除去すべきものでも、減らすべきものでもなく、むしろこの「異物」にこそ、デモの重要な側面が宿っている。デモは、人が人と会う場所、複数の人が同時に存在する、そのような時間と空間なのである。
 デモは、ひとつの「祝祭」である。普段は片道3車線の大通りを人が歩くことなどできない。道を封鎖し、大人数でそこを歩き、友人や友人の友人、あるいはまったく見知らぬ人と話す。それらは、普段の生活にはほとんど存在しないものであり、「イベント」=出来事、である。祝祭=イベント=デモ。退屈な日常からつかの間解放される時間としてのデモ。そのような側面は必ず存在する。

 社会運動には意味がない、という批判への私の最終的な応答はこうである。たしかに、ある種の社会運動は、それが運動の目的を直接に達成するものではないという意味で「意味がない」。だが、運動は、その運動が支援をしようと思う人たちに情動的なレベルで希望を宿らせるであろうし、広範で強固なネットワークを形成していくうえで欠かせない。そしてなにより、デモにおいてさまざまな人と道路で広場で出会い話すという経験は、日常性を超えた祝祭的な様相をもつ。
 「情動的なレベル」での支援を過大評価してはならないし、1つ1つの運動はネットワーク形成にすぐには役立たないし、デモを祝祭性へと還元することはできない、それは確かである。重要なことは、デモをその短期的な効果という側面からのみ思考するのでも、そのイデオロギー的な次元においてのみ思考するのでもなく、1つのデモを時間的・空間的に広い場に位置づけ、その物質的なレベルでの力やエネルギーを思考することである。

 運動に参加しない理由が「効果がない」という点のみに存するなら、私はあなたにぜひ参加しはじめてほしいと思う。いうまでもなく、人間の時間とキャパシティは有限である。すべての運動には参加できない。各々が各々の有限性とのつきあいのなかで、運動へと向かうのである。

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