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闘病記(64)人生の宿題。


「そろそろタイトルを変えようかな?それともサブタイトルがイカンのか…。」
「そもそも、『闘病記』と名付けているにしては病と闘っている場面が少ないし、サブタイトルは自分でもシュールすぎると感じることがあるな…。」
「もっと目を引いて、読めば必ず役に立つといった感じのタイトルにすれば良いのかな?例えば、『あつまれ脳出血サバイバー!リハビリ病棟徹底解剖!!』とか。」
などと、天井の木目を見つめてシワの数が少ない脳内で独り言をつぶやくうちに眠りに落ちていて、目が覚めたら午前11時だった。ちょうど40分間ほど眠っていたことになる。熟睡できた。頭がすっきりしたところでもう一度書き始める。
 脳出血で右半身の感覚が麻痺し、利き腕が全く使えなくなった自分の執筆スタイルは「音声入力」。
 頭の中でこねくりまわした文をスマートフォンのライティングアプリに音声で一気に入力していく。入力する文が尽きたら、また天井の木目を見つめたり目を閉じたりして考える。(物がダブって見えてしまったり、見える映像が常に微細な震えを伴っているという後遺症があるため、天井を見ることすら辛い時がある。そして脳が疲れ切ったら寝落ちする。)
 よって机にかじりつく必要も、PCに向かってキーを叩く必要も無い。大の字になって文章を書く。傍目にはただ寝転がってスマホに向かい、時々ぶつぶつ言っているだけに見えるだろうが、実は「書く」という作業をコツコツと行っているのだ。
 ある意味、「働き方改革」の最先端を風を切って走っている(車椅子を押してもらって)といっても過言ではなかろう。ごく一般的な会社に勤めるサラリーマンが、寝転がって「今、プレゼンについて大事な考えをまとめていますんで…。」と、上司に向かって言えるような素敵な社会が早く実現するといいと思った事は1度もないが。
 執筆のスタイルはいろいろ。働き方もいろいろ。人生いろいろ。
 「人生」と言えば、お世話になった理学療法士のTさんが1度だけ「人生」という言葉を使って、大切なことを教えてくれたことがあった。辛い痛みが続く日々に耐えかねていた自分に向かって、こう言ったのだ。
「残念だけど、その痛さはずっと続いてしまうかもしれません。そうだったとしても、その痛さを忘れてしまえる位に夢中になれる何かを探すことが赤松さんの『人生の宿題』かもしれないです。」 
 それから約5年が経過した今、自分の体は「症状固定」と言う状態になった。手足や体幹、顔を切り裂かれて無理矢理オキシドールに浸されるような激しい痛みは残ったままだ。
 24時間痛みに耐え続けている体は真冬でも右半身だけが発汗する。つい先日も、予防接種をしようとしてくれていた看護師さんが、体の左右差に驚いていた。
 右半身で熱を測ったら37.6度左半身は36.5度と言うような事は日常茶飯事だ。
 苦しみの最果てにいたかのようなこの5年間、よく生きていたものだと思う。もちろん周囲の人たちの助けや支えあってのことだ。
 だが何より大きいのは、「人生の宿題の細目」を見つけたからだと言える。   
 まだ使える左半身と頭脳、そしてAIを含むITテクノロジーを駆使すれば、音楽を作ることや文章を綴るなどの表現活動ができる。そのことに活路を見出した。
 残念ながら、どんなに夢中になっても痛みが去る事はないし忘れられることもない。だが、メロディーを作ったり、文章を編み出したりしている間は自由になれる気がする。
 それだけが動機だったらなんだか格好が良いのだが、そんな事はなく、「たくさんの人に自分が作ったメロディーを聞いて欲しい。書いた文章が多くの人の心に届いて欲しい。」と言う欲求はある。もしかすると、「死ぬまでに一花咲かせたい。」という俗な気持ちが根底にあるやもしれない。
 冒頭、このテキストのタイトルを変えてしまおうかと言う気持ちがあることについて記したが、それも、「タイトル変えたらもっとたくさんの人が読んでくれるかも…。」と思ったからに過ぎないのだ。
 なんだかグダグダな文章になってしまった。今日はどうしても投稿したかったがめちゃくちゃ痛いんだもん。人生の宿題は山積みのままだ。やれやれ。

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