闘病日記 (1) Enter.
2019年2月11日午後9時33分。この日付と時刻を忘れる事はないだろう。
脳出血を罹患した。
鮮明に覚えている。午後9時33分、勤務先の某学習塾。時計を確認し「よし、このメールを送信したら、生徒たちのいる学習室へ行こう。」とPCのEnterキーを押した。その瞬間、 何かが自分を真下へと垂直に引きずり下ろした。とっさに立ち上がろうとするとまた引っ張られる。今度は何十人もの力だった。「まずい。脳をやられた。」そう直感した。母親が2度のくも膜下出血を経験しており、発症した時を見ていたからだ。すぐに救急車を呼んだ。現在地と自身の様子、おそらくは脳に損傷きたしている旨を伝えた。駆けつけたスタッフにも現状と生徒に状況が大きく伝わることがないよう配慮してもらうように頼んだ。そしてやってきた救急車で救急病院へと搬送された。
救急車の中では、父と、双子の兄に連絡を取るよう要請した。父に連絡を急いだのは、母の手術や入院生活の経験から今考えられる限りのサポートをしてくれるだろうと考えたから。双子の兄に連絡を急いだのは、おそらく自分が死んでしまうと考えたからだった。最悪の状況を想定すると、兄がいてくれることで自分の死後のことがスムーズに、また誰にとっても悪くない結果になるだろうと思った。
救急病院に到着すると、いくつかの質問に答えた後CTスキャンの撮影を行った。ストレッチャーの隣を追いかけるように走っていた医師が、「赤松さん、」と呼びかけながらCT撮影した写真を見せながら説明してくれた。
「出血は、この場所からです。わかりますか。この真ん中のところです。」
写真で指された出血部位は真っ白できれいな形をしていた。
「カイワレ大根みたいだな。」と思った。そして、よく映画やドラマで切羽詰まった時につまらないことを言う主人公がいるけれど、ほんとにあるんだなと思った。
同時に、「これは、助からない。」と確信した。
院内はとても慌ただしかった。僕以外にも、公衆浴場で倒れて搬入されたお年寄りの患者がいたらしくその処置についてもドクターが指示を出していた。どこかに電話をし、「わかりました、濃度はどのくらいで?…え!?原液ですか。わかりました。手配します。」と言うと電話を切り、手配をされたその原液は僕の点滴に加えられた。本来ならば何%か希釈して使うものを原液で用いると言う事は自分の状態は相当悪いのか。終わった。遠くにいた父が大きな声で「〇〇病院の〇〇先生につながったよ。救急車も手配できた。がんばれ!」とこちらに向かって叫んだ。壁の時計を見た。午後10時3分。発症してからここまでのことを考えると経過した時間は短い。もしかすると、命だけは助かるかもしれない。それから、再び乗った救急車の中での事は全く覚えていない。後で聞いたところによると、救急病院の先生はずっと僕のそばにいて「赤松さん、がんばりましょう。」と声をかけ続けてくれたそうだ。
搬送先の病院に着いてからもしばらくは記憶がない。唯一覚えているのは、主治医の先生が「今から血管造影撮影と言う検査を行います。お酒を飲んだ時に少し酔っ払ったような気持ちになるかもしれません。心配いりませんよ。」と言う言葉だけだ。
目が覚めても、部屋の全容はわからなかった。自分が、ガラスケースのようなものの中にいることは何となくわかった。鼻や手にたくさんの管が挿入されていると言うことも。
父の顔が見える。
「脳幹と言うところから出血してるらしい。血が止まるまで待つしかできないそうだ。
手術は、禁じられている場所らしいが、大事には至らないだろうと先生が言ってた。」
と、大きな声でゆっくり言った。
「大事には~」の部分は、僕を気遣った嘘だと思った。
兄の顔が見えた。
「大丈夫やからな。今、何かして欲しいこととかある?」と尋ねてきた。
「状況はなんとなくわかった。もし延命治療の話が出るようなことがあったら
本人が望んでいないことを伝えて欲しい。」
と、話した。自分が全く話せないことに驚いた。声が出ない。口がうまく動かない。
唇を閉じることができない。
「赤松さん。ね、赤松さん。」
目が覚めた。
「少し落ち着いてきたから、下の階に降りますよ。
さようならHCU(高度治療室)だね。」
この看護師さんの言葉を聞くまでの数日間はまったく記憶がない。
父の話によれば、自分は3回にわたって生死の境をさまよったそうだ。主治医からは、もし一命をとりとめても、嚥下することが難しくなったり、言語機能を完全に失ったり、最悪の場合は心肺機能そのものが停止してしまうといった重篤な状態になることが予想されると話があったらしい。その後、早朝に突然の痙攣を起こし容態が一時急変したため、主治医から延命治療の話も出たとのこと。家族が一度は死を覚悟した時、出血が止まったという幸運なニュースをもらったのだそうだ。
大どんでん返し。とにもかくにも、自分は助かった。そしてこれが人生初の長期入院、リハビリテーション治療、闘病生活すべての入り口だった。
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