見出し画像

闘病記(54) ぬるっと


 学校の体育館の2倍はあろうかという大きさのリハビリ病棟。その中央に位置する生活訓練用のモデルルームの一角にあるユニットバスで「退院して、家庭に帰った後のための入浴の実習」を行っていた時のこと。
「今日はとても暑いですから、湯船にお湯を張るのはやめて、シャワーを浴びる実習だけにしましょう。」
と作業療法士のNさんが言う。
「浴槽の縁のところに湯船に出入りする器具がある時はそれを使ってくださいね。」
と、身振り手振りを交えながら手すりの持ち方などを説明してくれて、自分も「退院して家に帰ったらいきなり生活が始まるのだ。しっかり勉強しておかなければ。」と言う気持ちで集中して聞いていた。(一応書いておくと、二人とも着衣である。)
次にNさんが、
「もし、手すりのような器具がない場合は、湯船に入るのに少々コツがいるので練習しておきましょう。今この浴槽には何も入ってないですが、お湯が入っているつもりで、私の動作を見ておいてください。」
「わかりました。」
「ぬるっといきますから。」

え。

「まず、湯船の縁のこの広い部分にお尻を載せます。そして、動きやすい方の左足をお湯の中に入れます。続いて動きにくい方の右足をこのように(軽くくの字形になるように実演して見せてくれた。)湯船の縁に載せたら、お湯の浮力と湯船の角の滑りをうまく利用して「ぬるっと」入ってください。じゃあやってみましょうか。」

と、Nさん首までお湯につかっていた感じの湯船から出てきた。いやお湯はないんだけれども。でも不思議なものでザブンと言うお湯の音が聞こえたような気がした。
 一連の動作が自分には複雑すぎてぽかーんとしつつも、Nさんの「ぬるっと」という一言がツボにはまってしまい、
「いやいやNさん、いくらなんでも「ぬるっと」はないでしょう。カタツムリやナメクジじゃないんだし。(笑)」
とかなんとか茶々をいれよう思ったが、Nさんの表情が真剣そのものだったので我慢した。
 さっそく自分もNさんの真似をしてやってみた。しかし、どうもうまくいかないのだ。お湯(入れているつもり)に触れているあたりから、体全体がバタついてしまっているのがわかった。
「実際には、お湯の浮力がありますから。今ほど右手に体重はかかりません。それと、湯船の角の部分をうまく利用してぬるっと入ってくださいね。」
うう。また「ぬるっと」って言ってる。笑いたい。なんとか我慢しつつ言われた動作を繰り返しているうちに頭の中ではいつの間にかその動作に「ぬるっと」がマッチするようになっていた。
「ずいぶん上手になりました。それじゃあ、シャワーの実習に移りましょうか。」
とNさんか言う頃には、自分の脳と体に「ぬるっと」の動作の感覚が少しずつ定着しているのがわかった。あの動作をうまく表現する言葉は「ぬるっと」をおいて、他になかったのかもしれない。シャワー実習等についてはまた次回以降に書きます。ぬるっと。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?