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**それでいいんじゃないかな**

自分が大切だと思っている人なら
自分が大切だと思っている人だから
「見守る」ことが必要なんだって話をした。

言葉が正しいかどうかは別として
今回は「見守る」を使用しようと思う

喜怒哀楽
素晴らしい表現だと思う
「喜ぶ」や「楽しむ」はわかる
笑顔だから

でも「怒る」や「哀しむ」のときはどう接していいかわからない
それはそうだ
自分自身に対しても正直わからなかった
自分に対して何をしてあげるのがいいかわからない

でもある日気づいた
「自分じゃないから、何もしない選択もある」と。
自分のこともわからないのに相手の気持ちを救えるわけないと

だから、いわゆる「優しい言葉」をかけたりはしない。できない。
ただ、問題によっては「あなたは、こうかもしれないけれど、自分はこう考える」と言う言葉をかけるようにした。最近、それすらしないかも。

その人の意思が強ければ強いほど
その人の描くイメージがしっかりしていればいるほど
外野の言葉はいらないものになる
なぜなら、その人はいい意味で「周りからどう思われてもよい」と思っているし、自分の中にきちんと答えがある。
ひねくれているわけでもないし、ネガティヴなわけでもなくて、「自分に素直な人」と言う意味。

むしろ周りの目を気にしたところで、何の解決にもならないことを知っているから。それでも自分の中にある感情の折り合いがつかない時に、怒りや哀しみの感情の処理をうまくできなくなり、自分にイライラする。

そんなイメージを抱く。

これは特定の誰かではなくて、自分を含む「自分はこうありたい」と思う人によくあるケースってだけの話で、そこに個性がプラスされるから第三者は「振り回される」と言う言葉を使うだけの話。

「振り回される」のではなくて「こちらが振り回している」だけの話なのだ。

なので、自分は「冷たい」と言われようが「もうあの人のこと何とも思ってないの?」と言われようが「何で優しい言葉をかけてあげないの?」と言われようが「見守る」ことにしている。「その人を信じている」からできること。

誰だって、自分の中の感情の整理は必要だもの。

人間と人間
うまく行かない時期があってもいい。

今日はそんなお話。


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