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「猫を抱いて象と泳ぐ」から見る言葉のあり方

TEXT by freepaperSTAR* editorial department

小川洋子(著)「猫を抱いて象と泳ぐ」あらすじ

 口を閉ざした状態で生まれた少年は、生まれて間もなく脛の皮膚を口に移植され、口を付けられる。しかし、脛の皮膚は年を重ねるにつれて毛が生え、それがきっかけでいじめを受けた少年は口にコンプレックスを持つようになり、寡黙になった。
 ある日少年は、廃バスの中で大柄な男「マスター」とチェスに出会うが、マスターは体が大きくなりすぎて外に出られず、そのまま廃バスの中でなくなってしまう。
 マスターの死により「大きくなること、それは悲劇である」と胸に刻んだ少年は11歳で成長を止め、からくりチェス人形”リトル・アリョーヒン”の中に入り様々な人間とチェスの海を泳いでいく。その姿は「盤下の詩人」と呼ばれていた。

読後の感想

 静かに燃えていた蝋燭の火が白い煙をあげて眠りにつく
 彼ーリトル・アリョーヒンの人生はひっそりと佇む廃バスから始まり、チェス人形”リトル・アリョーヒン”の中で誰にも気づかれることなく終わっていった。
 読み終えた後は名残り惜しさもあったが、それが彼の生きた道なのだとリトル・アリョーヒンの姿を見送る自分がいた。
 それはデパートの屋上でインディラの最後に思いを馳せる少年リトル・アリョーヒンの感情とどこか重なったような気がした。

”大きくなること”が悲劇なのか

 この物語では、「大きい」「小さい」という言葉が多く出てくる。そして、この2つの言葉はリトル・アリョーヒンの人生を語る上で重要な言葉となっている。大きくなってしまったが故に起こった悲劇として、デパートの屋上でパフォーマンスをしていた象ーインディラが返却期限の超過で体が大きくなりすぎ屋上から降りられなくなる話、壁の隙間に迷い込み出られなくなった少女ーミイラの話、大きい体のせいで廃バスから出られずに亡くなったマスターの遺体が野次馬たちの視線の中、紐で縛られクレーンで運び出される様子、病気によって形が変わるほどむくんでしまった祖母の顔、があげられる。これらの悲劇から、リトル・アリョーヒンの中では「大きくなること=悲劇」という考えが生まれた。彼自身もできるだけ体が大きくならないようにお菓子を避けたり、食べ物を控えるようにしていた。
 しかし、大きくなることを恐れていたリトル・アリョーヒンはチェス人形”リトル・アリョーヒン”の中に入ったまま小さく体を折り曲げた状態で一酸化炭素中毒により亡くなってしまう。そして、体の大きな総婦長に抱かれて運ばれていった。
 後半のリトル・アリョーヒンの話からも伺えるが、この物語は「大きいから悪い」「小さいから良い」ということを伝えたいわけではない。
 人間も含め、あらゆるものにはそれぞれにぴったりと嵌る場所があり、余計な言葉などいらず「ただそうなった」それが全てではないかと問いかけているように私は思った。

余計な言葉はいらない

「愚かな口で自分について語るなんて、せっかくのチェス盤に落書きするようなものだ」(285ページ)

 チェス連盟の老人たちが余生を過ごす施設”エチュード”でリトル・アリョーヒンは毎晩、眠れなくなった老人たちのチェスの相手をしている。その老人たちの一人キャリーバッグ老人の言葉が私は好きだ。
 
 試合後に老人は「人形は良い。そう思わないかい。」と言う。彼曰く、チェスには本当は言葉などいらないはずなのに「口」というものがあるばかりに自分に意味を付けたがってしまう。口を開けば自分のことばかり、人間は自分が一番大事なのだ、言葉によって誤魔化しせっかくの美しいチェス盤を上からうめていくのだ、と。

 この言葉で私はあることを思い返した。
 私は仕事とは別にSTAR*projectでインタビューなどをし、記事を書いている。
 インタビューでは、読者に文面が伝わるよう過去・現在・未来と繋がっていく糸のようなものはないだろうかとその人のテーマや価値観を探していく。だがここで重要なのは「何故」と聞くのではなく「どのような経緯で」と聞いていくことだ。何故このお店を始めたのか、何故この活動に取り組んでいるのか。理由は必ず行動を起こす前の明確な意図や計画がなければ答えられない。最初の頃の私はすぐに「何故」と聞く人間だった。何か人と違うことをしている人には必ず説明できるはっきりとした理由が存在すると思っていた。
 しかし、中には「何故」と聞かれて返答に困る方もいた。「よく聞かれるけど、好きだからこのお店を始めたわけではないんです。その時々の状況で考え選択をしていたら今に至ったんです。」と。そう言われると、私自身も普段はデザインを生業にしているが「何故」と聞かれると「何故だろう」と思ってしまうときがあった。デザインが好きかと言われたら好きだが、最初からデザインをしたかったわけではないし、「デザインが好きだからデザインを仕事にしたんです」と好きを理由にできるほど熱い想いを持っているわけでもない。そこで今に至るまでを振り返ってみたが、明確な理由があるというよりは、気がつけば身近に誰かのつくった芸術や創作物があり、デザインがあり、問題や悩みを抱える人がいて、自分はデザインを通してともに解決方法を探しながら、今ここにいる。それだけだったのである。

 人間は自分の行動に意味を、言葉を付けたがる。
 確かに言葉は人に理解してもらうのに便利な道具である。だが、言葉に委ねすぎてはいないか、言葉を付け加えられた対象(本質)にではなく付け加えた言葉に価値を見てはいないかと疑問に思うときもある。とくに形のないものを表した言葉は聞く人の解釈によって大きく変わるため、発言者の意図が伝わっているようで伝わっていないということもある。言葉に自身の感情が振り回されることもある。
 言葉というものを否定するつもりはない。ただ言葉そのものや言葉にするという行為が一体何を伝えているのか。言葉を紡いでは解き繰り返す行為こそが言葉を持つ生き物である私たちの責任ではないだろうか。

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