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あなたがくれた愛は、私が欲しい愛ではなかった。

私は高校生の頃から、家族に対して何となく思っていたことがあります。

物質的に恵まれている家庭で育っている自覚はあるし、やりたいことはやらせてもらえているし、私の選択や生き方を否定・反対されたことは記憶の内にほぼ無いのに、

なぜ、こんなにも「家族」が嫌なのだろう。
一緒に過ごしているだけで、何とも表現しがたい違和感や不快感を感じるのはどうしてだろう…。
反抗期だ思春期だという言葉では片付けられない、”何か”があるんだよなぁ…。

これが、ずーっと謎でした。もう本当に、謎。これが解明したくて大学は教育学部に行って社会心理学とか、家族心理学とか学んだぐらい(でも、そこでは分からなかったよ。笑)

そんな私が言語化できなくて悶々としていた部分を、鮮やかに明文化してくださっているブログ記事に出会った。こういう時の爽快感たるや……本当にありがとうございます、とお賽銭を入れたい気持ちになります。

私が深夜のネットサーフィンで偶然にも出会ってしまった(笑)とても大好きな、算命学鑑定士の佳代さんのブログ記事です。

私が親から与えられていた愛

冒頭にも書いたけど、私は自分が物質的な面で困窮したことはない。むしろ「色々とやらせてくれてありがとう」と思った方がいいぐらい、好き放題過ごしてきた子ども時代でした。

ピアノ、水泳、習字、公文……習い事は全てやりたい時にやりたいようにやったし、辞めたい時に辞めたので、驚かれることはあっても変に口出しされることはなかった。

私はお小遣いをもらっていても基本的に無駄遣いすることがなかった上に、部活と受験が猛烈に忙しくて、中高6年間はほぼ家に居なかったと言っても過言ではない。
そんな状況下でも親よりお金を慎重に使っていた方なので「(お金)大丈夫?足りてる?」と母親から心配されることの方が多かった。まぁ決まって「(やりくりしてるから)大丈夫」としか言わなかったんだけどね。


この状態を傍から見れば、何も問題が無く恵まれていて、幸せそうに見える”かも”しれない。


だけど、物質的な豊かさと精神的な豊かさはイコールではない。
もう言い古された言葉かもしれないけど、自分の子ども時代を思うとそれが如実に当てはまる。

例えば芸能人の子供が昔から何でも物を買って貰えて、お小遣いもたくさん貰って、周りの大人にはちやほやされて成長し、挙句の果てに犯罪者になったりする。「溺愛されてきたから」などと言われるけれど、そこにあった愛らしきものはカスカスだったのだろう。

佳代さんのブログより一部引用

まさに、この状態そのものだった。
確かに「物質的で愛”らしき”もの」は受け取っていたし、健康で文化的な最低限度の以上の生活は保障されていた。父親も、その為に仕事を頑張っていたと言っていたし(後日談)そう言われると「確かに、愛されていたのかなぁ?」なんて思わざるを得ない。

だけど「愛されていたのかなぁ?」とはてなマークが浮かぶ時点でおかしいんだよ(笑)
愛されていたかどうか、というのは本人の基準で測るものであり、親や他人の基準では測ることができないし、口出しなんてもってのほか。

じゃあ、なぜ私はこんな風に感じていたのか。

私が本当に欲しかった愛

あまりにも私の日常に無かったので、ここまで言語化されてビックリしたんだけど、私が心から欲しかった愛はコレだったんですよ。

子供を見ていると、小さい頃はそりゃあもう何度も何度も何度も何度も親の元に来ては親が自分にちゃんと関心を向けてくれているか、親が自分を大事に思ってくれているか、自分が親にとって1番の存在なのかを確認しに来る。
「いやもうさっきそれ言いましたやん・・」となるほど、ウンザリを通り越して白目で気が遠のくほど愛情を確認しに来る。まともに相手をするとものすごいエネルギーも時間も吸い取られる。

でもそれこそが子供にとっては成長する上で最も必要なことなのであって、それこそがその時期の子供のやるべき仕事なのだろう。

そしてそれをずーっと続けていると、その内その確認行動が少しずつ減って来る。
お母さん/お父さんは自分のことちゃんと見ててくれてるかな?大事に思ってくれてるかな?
と思っても、何億回も繰り返すことで
こういえば大丈夫と返って来る、こうすればちゃんと見てるよ、すごいね、と関心を向けてくれている
それを自分は知っている
じゃあもう確かめに行かなくていいかな、自分はもう大丈夫だな

と反復学習で少しずつ自己イメージが作られていく。

大人になった段階で、基本自信があって、外的事象に頼らずとも基本気持ちが安定している人というのは、家族関係がある程度安定した家庭育ちの場合が多い。そこはかとなく感じられる
何があっても私は僕は大丈夫でしょ、自分なら何とかなる、自分ならなんとかできる
という自分への信頼感。そして自分が好きという感覚。

生きて行く上でこれ以上の財産ってあるだろうか。

佳代さんのブログより一部引用

自分に向けられる関心、それはつまり

自分のためだけに向けられる眼差し
・自分の話を聞くためだけに過ごしてくれる時間
・自分のためだけに掛けてくれる言葉

こういうものが、家庭生活の中であんまりにも無かった。
無い状態がデフォルトなので、それを得ようとしたことすらも無いように思う。きっと幼い頃の自分が、早い段階でどこか深い諦めと絶望を感じたのだろうな。

母親は何考えているか分からないし、私が感情的になっても言葉のキャッチボールをせずに八つ当たりで済ませてきた人だし、
父親はそもそも単身赴任で家庭に不在。父親ってどういう人間なの?という地点からのスタート。(きっと、こういう家庭は私だけじゃないはず)

物質的に満たされているから麻痺していただけで、関心という名の愛が無いことが普通だったから「無い」という事実に気付くことも無かった。
その状態に心底ビックリしたし、文章を綴っている今もやっぱり驚いて涙が出るし、自分の持つ当たり前は当たり前じゃないのだなぁと改めて思う。

そりゃあ、違和感も不快感も持っていて、当然。当たり前じゃんね。
今ならそう、子ども時代の自分に声を掛けてあげられる。

長年蓄積され続けた途方のない怒り、悲しみ

私の父親は鬼の仕事人間だったし、自分の仕事に誇りを持っていて、私にも過去の栄光をよく話してくる。その話を聞くたびに「良かったね、すごいね」と素直に思えず、モヤモヤとした不快感を抱く。

スピリチュアル系の先生に「それは、あなたがちゃんとお父さんを見ていない証拠よ。話の表面じゃなくて本質に耳を傾けてあげて」と言われたことがあるが、なぜ娘の私が、親の自慢話を聞いてあげなきゃいけないんだろうか?はて?

この複雑な想いも、ここに言語化されていた。

そこで起こっていたことの本質は、親が自分の人生を子供の人生より遥かに優先しているということ。

子供と時間を過ごし忍耐強く話を聞いたり、会話したり、何かを教えたり、一緒に何かを楽しんだり・・・という時間もエネルギーも膨大にかかる手間をお金で誤魔化しパスし続けただけ。

ああ面倒臭い面倒臭い、そんな地味で誰にも評価されないようなことやってられるか、サボってもバレないわと。そんなことよりもアタクシ/俺様は自分の輝く人生を謳歌する権利があるのだ、と。

佳代さんのブログより一部引用

そう、そう、そう、まさにそう。私が言いたかったの、これだわ……。

仕事に邁進するのはいいよ、嫌々仕事をするよりも「この仕事が好き、楽しい、誇りをもってやってるよ」という姿を見せてくれるのは100万倍良い。

だがしかし、あんたの掴み取った社会的栄光が、私の尊い子ども時代を犠牲にして得てきたものだとしたら?

そりゃあ、素直に喜べなくて当然だよね。私を蔑ろにした上で得た俺様の栄光なんて、聞きたくなくて当たり前。

あんたは好きなように好きなだけ、仕事をしてきたんだと思うけど、その裏で子どもの私がどれだけの孤独を感じ、一人で悲しみや苦しみを受け止め、後ろ盾無しで一人で困難に立ち向かい、乗り越えてきたと思ってるんだ。
そして、そういう子どもの姿に想いを馳せたり、想像することもできないという未熟な人間性にも、また絶望する。

大人になった私が得ている自己信頼の感覚は、間違いなく両親から与えられたものではなく、自分の行動の積み重ねで、もぎ取ってきたもの。
両親が機能不全だった代わりに、信頼出来る周囲の大人に頼ってここまで生きてきたからね。

だから、私は親に「育ててもらった」という感覚が、本当にない。むしろ、そんな感覚抱いてたまるかと反抗心が湧く。

中学はド底辺校だったので置いておき、高校・大学と出会った友人達と自分との”目に見えない表現しがたい違い”にいつも悩んでいたけど、
長年蓄積されてきた不快感、違和感の正体は、こういった途方のない怒りと悲しみだったのだなぁと感じたのです。

その愛は、修復可能なのか

じゃあ、ここまで傷付いている状態は、修復できるんだろうか。

今の私は、それが「できる」と言える。

カウンセリングやセラピーを受け始めて気が付いたのは、両親がこんなにも機能不全で使えなくても、どれだけ目に見えない傷を付けられても、
それを理解し寄り添い、自分事のように涙し怒ってくれ、適切なサポートをしてくれる人は世界中のどこかに必ずいる、ということ。

そこに辿り着くことができないからこそ、最悪の場合、犯罪者になったり自死を選んだりもすることもあって、それはそれで胸がとても痛いのだけど…

でもね、とても難しいことなのは承知の上で、自分を理解しようと歩み寄ってくれる人を探すことを諦めない。
その意思だけ持ち続けていれば、必ず出会えるんじゃないかと私は信じてるし、自分や周囲の経験を観ていて、そう思う。

そういう人に出会えたら、サポートしてもらいながら心を癒していく。時間をかけて、丁寧に、優しく、傷を修復していくのです。

残念ながら、一人では限界がある。
一人じゃできない部分が必ずあるからね。(ここ、死ぬほど大事)

この両親のもとに生まれて良かったとか、そんな綺麗事を今は到底思えないいし、怒りも悲しみもまだ成仏していない。

でも、すごく感じているのは、私が私であったからこそ、この経験をしているんだってこと。
機能不全家庭で育って深刻な愛情不足であったとしても、私の中には心から人を愛せる力があるのだってこと。


私の友人が、こんな嬉しい言葉をくれたことがある。

あなたの愛は、本当に深くて、あたたかくて、決して押しつけがましくなく、自然で、私はそんな愛にとても救われていました。
しんどい時、自分が認められない時、あなたとは繋がっている気がして、安心できました。ありがとう。

これは紛れもなく、私自身が持つ本来の素晴らしさであり、私自身の中に、過去も今も未来もいつも存在し続ける愛だった。

そこに目を向けて、光を当てて、生きていく。

それが、私が本当に欲しかった愛なのだから。
私が本当に欲しかった愛は、私の中にあったのだから。

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