見出し画像

「旧時代に取り残されないで」という言葉に、易経はこう答える

「これまでの時代の考え方でいると、取り残される」
先日、とあるメルマガを読んでいて気になった言葉です。どっかのYouTubeでもチラっと見かけた気がする(忘れた)

私もこの方と同じように感じていた時がありました。特に去年あたり。
秋頃からは謎の焦りを感じて「このままじゃ、マジで日本終わりますよね…」って身近な人と話していたことも。

今でもその想いはあるので0になった訳ではないんだけど、冷静な頭で考えてみるといくつか疑問が浮かんだのです。

私はどの立場から、この事を考えているのだろう?
というか、「取り残される」ってどういう意味?

もっと言ってしまえば、取り残されることの何が問題なんだろうね。

「取り残される」とは

政治経済的な部分から見れば、日本が色々な意味でヤバイのはここで語ると長くなるので割愛させてもらうと、

「目覚めないとヤバイ」とか「覚醒する人を増やそう」とか、そういう言葉を目にする機会も増えました。
これは、直接的な問題をどうこうするという話じゃなくて、【今起こっていることに対して個人がどういう視点で見て、考え、どう行動するか】という次元の話。

人によって意見は様々だと思うけど、私が推測するに「取り残される」というのは、

時代に付いていけないことで、様々な個人的問題が起こる
⇒ その結果、自分の望む人生は歩めない
⇒ 不幸になる、不利益を被る、人生オワタ…

みたいなニュアンスが強い感じがするけど、どうだろう。
「取り残される」という言葉をわざわざ使うということは、そこに負のイメージが付着しているから呼びかけているのだよね。

だからこそ「取り残されないようにしよう」という”問題回避”的な言葉が使われる。そうじゃないと、この言葉は生まれない。

でも、取り残されると、何が”マズイ”のだろうか?
本当に、不幸になるのだろうか?望みは叶わないのだろうか?

何をまずいと感じるのかは人それぞれ違うし、それは自分を知るという意味で考えてみるキッカケになるとは思います。

(中には、考えてもよく分からない人もいて、そういうのは潜在意識の影響が大きいと思うので原因を的確に探して疲れる必要はない)

最も大事な視点はこっちだよ

時代の変化はもうヒシヒシと感じざるを得ないし、個人レベルでももっと大きなレベルでも根底からの変容が促されていることは間違いない。

そんな空気感を纏っている情勢だからこそ「取り残されないようにしよう!」だなんて言われたら、
そりゃそうよね…やらなきゃ……どうしよう…と焦りや不安に駆られがち。


だけど!ここで、最も大事なことに気が付くのです。

「取り残される」「間に合う」という二項対立的な概念で、私たちの人生は捉えることは不可能やん。というか、しなくてよくね?

私たち、この罠には本当によく引っ掛かりますよ。
二項対立的な概念にハマると、本質を見失うんだなぁ~やはり。何度も学びますねぇ。

世界がどうであれ、日本がどうであれ、それを構成しているのは今生きている肉体を持った私たち人間一人ひとりの意識。
確かに大きな支配組織があるとはいえ、この事実は変わらない。

あとは、目に見えない存在もいるし影響を与えているけど、最終的な決定権を持つのは肉体的人間だと、私は思っている。

だとすれば、やはり、時代が変わろうがどうなろうが、取り残されないようにって騒いでてもやることは同じで、

自分の人生を生きることだけ。自分の宿命に合わせて、運命を巡らせていくだけ。

私ね、今年に入って易経を学んでいるのですが、心底ハッとさせられたのが
「時流に乗るな、時中に乗れ」という言葉だった。時中とは、「時に中(あた)る」=「その時にぴったり」という意味。

社会のトレンドや流行に乗るのではない、自分や物事の流れが今どこにあるのかを見極め、その時にピッタリなことをやる。それが一番大切だと。
そして、それを診断するのが断易であり、その具体的処方として風水が使われます。(東洋思想、抜かりない。すごい)

それを知った時に、不要な焦りがかなり消えたのを覚えています。


例えば、今の時期に桜が流行ってたとしても、肌寒くなった晩秋の時期に桜が咲くのは無理な話。
(無理に咲かせようとしたら、どうなるんだろう?今の技術なら無理にできちゃうのかな?)

桜には桜が一番綺麗に花開く時期があり、ひまわりにはひまわりが一番輝く時期がある。

桜が満開に咲いて美しい季節に、ひまわりが「私、取り残されてる!!咲かなきゃー!!」とはならないのと同じ原理だね(笑)

だから、私たちも自分の「時中」を知るほうがよっぽど大事だと思う。
中国ウン千年の歴史が紡いだ叡智がそう説いているのだから、こっちが真理でしょう。

時中を知り、その時に合ったことをするというのは、自然の流れに沿った生き方をするということ。
それを個人レベルで見れば、自分本来の人生を生きることと同じ。
そういった生き方をしている時にのみ、喜びや幸せ、奇跡が起きるってことを易経は既に示している。

それでもし淘汰されるなら、今世はそこまでの人生なのかなって思うし。
(易経の考えで行けば、自然に沿ってたら淘汰は無いけどね…)

これから時代の変化がますます激しくなっていくに違いないけど、そこにただ流されるだけじゃなくて、自分の”時”を見極める。確認する。
そのために、自分の身体や心の声をよくよく聴く。
しつこいくらいによーーーく聴く。聴くんだぞ、私。(自分に言ってますよ!笑)

そうしていれば、何かに取り残されるとかなんだで不安や焦りに駆られ過ぎる必要はない。

ただ、こんな激動の時代なのだから、不安や焦りが0になることはもちろん無い。けど軽減して乗りこなすことはできる。

その積み重ねが自分の軸、自分の大事な土台や幹を支えることになるのだろし、
結果として自然の流れに沿った生き方となり、大きな潮流(社会の流れ、時代の流れ)にも適応して行くのだろうなぁと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?