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750円のお寿司で味わえる価値、3万円のセミナーで問題解決の価値

先日、
ど~してもお寿司が食べたい!!身体が生魚を欲している!!と思いまして、久しぶりにお寿司を頂きました。

も~超幸せ!とろっとろのサーモン!プリプリで味が濃いホタテ!

今の自分の身体がめっちゃ欲してる「食べたい」を的確に満たしたときの心と身体の満足度って、ハンパない。

細胞レベルで染み渡たるわ~美味し過ぎ~!って750円のお寿司を堪能していたんですけども(笑)


実は私、この750円の幸せを買うのって、
3万円のセミナーを受ける時よりも決断に時間がかかるんですよ。なんでやねん(笑)

セミナーだけじゃなくて、受けたいセラピーとか、学びたいこと全般がそうですね。

でも、750円のお寿司には、めちゃくちゃ躊躇うわけです。


いや、何度書いてもよく分からない話ですね(笑)
750円と3万円って、桁が違い過ぎないか?w


私の中の図式では、

こういった事は受けたい目的が決まっているし、必要性を感じるし、その時間だけじゃない中長期的な価値を感じていることには、ポンとお金を使える。

得られる知識や体験は「得ること」に価値があるんじゃなくて、人生の中で1日も早く「身体で感じ、腑に落とすこと」に価値があると思っている。
だから、お金をかけて時間を買ってるような感じ。

一人で学ぶことには限界があると、身をもって痛感しているので。



ただ、

750円のお寿司の価値に対しては、食べて終わり!何も残らない!と思っていた。
美味しさにも、美味しさを感じる体験にも、価値はあるのに。こんなに美味しいのにっ!

私的に見て「長い目でのメリットがない」と判断するものには、本当にお金をかける価値がないのか。自分は本当にそうしたいのか。


ここで気付くわけです。

快楽にお金を使えない自分を。


そしてこのパターンは、完全に父親由来のものだと(^^;)


むやみやたらにお金を使えって訳ではないし、価値基準は人によってそれぞれでいい。
自分が心から満足していれば全然問題ない。

だけど私が自分に引っ掛かったのは、

自分の身体が欲するもの、
自分が心地よく過ごす為の日常的なもの、
ただ理由も無く「好き!」と思えるもの、

ここにお金をかけなくてどうするんや!
私は、それ「が」ええんか?

って話。


もっと踏み込めば、

セミナーや何かを受けて悶々と考え続けて、身体も呼吸もガッチコチの状態でいること

お寿司を食べて「あぁ幸せ」って思って、身体も心も緩んで、リラックスした状態でいること。

どっちが真の豊かさに直結するかと言えば、圧倒的に後者です。
波動の法則で考えてみても、確実に後者です。

(悶々とする時間も、もちろんあっていいんだけどね)


少し話が逸れますが。

最近はもうこのご時世で行けてないけど、私はヨーロッパに行くと必ず、食器や陶器を買っていました。帰りの荷物が重くても絶対に。

帰国してから、日常的にその食器をずっと使い続けていて、
「ああ、これは●●で買ったやつだな~💕」ってニヤニヤしながらいつも過ごしています。

今でもそうです(笑)

毎日愛用しているポーランドのマグカップは2015年に買ったから、もう8年選手?!

そのマグカップは旅先での思い出と、日々の思い出と共にあって、8年経った今では値段以上の価値になっている。

これが無くなってしまっても、代わりになるものはない。高級食器を買い与えてもらっても、満足できないと思う…。それぐらい大事なもの。

たぶん、日本円で1,000円もしないぐらいのマグカップだけどね。

これはオランダ郊外の陶芸屋さん

東洋哲学で見ても、女性を真から満たすのは「喜び」です。

心地よくあること、楽しむこと、喜びを得ること、そういったことにお金を使うこと。

自分の喜びに基づいたエネルギー消費をしない限り、女性として生きる喜び、そして目に見える豊かさは無い。

一方、自分を厳しく律し過ぎたり、私のように頭で考え過ぎて物事を判断することが過剰になると、自分のことが分からなくなる。

何にエネルギーを注ぎたいのか、チンプンカンプンになってしまう。


これは何千年も前から分かっている、構造的なお話です。


必要なものに、必要なお金・時間をかけることも大事。

だけど、必要性だけじゃなくて、

自分の身体が欲する「これ食べたい」「これを感じたい」「これを味わいたい」も同じだけ、大事にしてあげたい。

だからこそ、日々の小さな選択がめっちゃくちゃ大事なんやなぁってお寿司から学ばせてもらいましたよ。

お寿司は偉大。お寿司ありがとうすぎる🍣

めちゃくちゃ美味しかった~幸せ!

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