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何が正しいか間違いなのか、気にし始めたら原点に戻る
SNSを見ていると嫌でも他人の意見や感情がものすごく入ってきて、時に「これは正しい」「これは違うでしょ」とジャッジしている自分に気付くことがあります。
「ジャッジそのものを手放そう!」と声高に言う人もいるし、確かにジャッジしている自分を見つけると心苦しさを感じる時もある。
だけど、私は手放ししなくていいと思っている。ジャッジは悪者ではないし、排除対象ではないと思うのです。
そもそも、ジャッジしないと生きていけないのだから!
ジャッジを失うと、自分が何が好きで嫌いなのかが分からなくなってしまう。
私たちの身体も、自分にとって必要なものと不要なものを分ける(=ジャッジする)機能があるからこ生命活動ができていて、免疫機能はその真骨頂。だから、自然界のシステム的にジャッジは必要なのだなぁ。
ただ、「好き」「嫌い」のジャッジだったら個人の好みという範囲の話で終わることが多いけど、他者が関わる話になるとそうもいかなくなる。
「この意見は正しいから、認めるべきだ」「この主張は間違っているから、考えを正せ。発するな。」そんな風に、自分の中でなされたジャッジを自分や他人を責めたり押し付ける方向で使うと、自他を傷付ける凶器に様変わりしてしまう。だから、苦しむ。嫌になるよね。私は、何度も嫌になった(そういう自分が嫌い、という意味で)
でも、火の取り扱いと一緒で、ジャッジを自分にとって”使えるもの”にしていけるかどうかは、自分次第だとも感じるのです。
「どっちが正解論じゃなくて、とった方向を成功させるか論じゃないですか。そういう考えだったら、今回(今年の24HTV)は成功だったと思う」
中丸くんのこの言葉は、すごく真意を付いてるし、素敵だなぁと思ったんですよね。表舞台で良くも悪くも沢山の声を聴き、ジャッジされる立場にある世界で長く活躍しているからこそ、説得力があるというか。
私自身の経験で言えば、正しいか間違ってるかを気にしている時や、正解を探して自分が揺れる時ほど「成功するかどうか」「うまくいくかどうか」ばかりを気にし過ぎているなぁと思うんですね。
物事には陰陽両面があるって口酸っぱく言ってるし、認識しているのに、いざとなると素っこ抜けて、利(=陽)だけを貪ろうとするの。……まだまだちっちゃい人間だなぁとつくづく思います(笑)
だけど、毎度思い出すのです。
どんな可能性を選択したとしても、自分の思うように進むかどうかなんて分からない。神のみを知る。
選択するということは、
上手く行くこと、上手く行かないこと、どちらとも言えないこと、
様々な可能性(結果)を引き受けるということ。
だから、
正しいか、間違っているのか、何が正解の道なのか…そこに執着する時は、
「自分は何を信じ、何を選びたいのか」
というシンプルな原点に戻る。
不思議と、そうやって上手く行くかどうかを気にせずに、ただシンプルに「自分がこうしたい」だけで選んだ決断は悔いが無く、結果的に上手く行ったと感じる経験が多いのですよねぇ。
もちろん、そうでないこともあるけど、圧倒的に悔いがないし誰のせいにもしない。ただ淡々と起きたことを受け取ることができる。
だから、シンプルにこれだけでいい。
物事を複雑にしているのは自分自身だったと気付く時に、身軽になれる。
その繰り返しを、生きて行こうと思うのです。
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