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全力で憎め。全力で怒れ。許しという名のオブラートで綺麗に包むな。
初っ端から切り込みますが、私はスピリチュアルや心理でよく言う
全ては、愛と感謝なのです
ゆるしましょう
という言葉が嫌いです。
何を仰ってるのですかね?ん?(。´・ω・)となる。
ドロドロした憎しみや悲しみ、怒り、苦しみといった生身の感情を味わい尽くした上での赦し・感謝に至った体験をした人の言葉には説得力があるし、エネルギーが乗ってるし、その人の体験の叡智そのものなので、私は心から敬意を表したくなります。
が、
それだけ自分と影(陰)と向き合った人が、「ゆるしましょう✨」「ゆるすことが大切なのです✨」と説いてくることはないな、と思う。
なぜなら、腸(はらわた)が煮えくり返るほどの怒り、誰かを殺してしまいたくなるほどの憎しみ、そういった感情を伴った身体感覚って、本当に不快で、その根が深いほどインスタントに解消できるものではないということを体験的に知っているから。
いや本当に、ココは何度でも強調するけど、マジで早く消し去りたくなるぐらいの嫌悪感が凄まじいですよね。こういう類の身体感覚は。
経験したことのある人はきっと、頷いてらっしゃることでしょう…。
私自身も今年に入って、その腸(はらわた)に抱え込んできた恨みつらみ、果てしない怒りが噴出してて供養するのが大変で大変で。
「私、人として大丈夫かな?」ってちょっと不安になるぐらいだったけど、頭の片隅でどこか冷静にこう思っています。
良かったね、それ、ずっと放置しないで。
「私はもう、大丈夫」「乗り越えたから」「ネガティブな感情は感じ切ったから」って蓋をして、腐敗して、臭くなったのに気が付いてから向き合うんじゃ、たぶん遅いよ。手遅れだよ。
って、私の中の誰かが、常に、そう言ってます(誰やねん)
「たぶん遅い」というのは、あくまで、私の今世の中での基準。
ドロドロとした感情に蓋をし続けたまま何かを成し遂げるとか、誰かのために何かをするとかは絶対無理だし、
どこかで必ず行き詰まるようになるし、最悪の場合は命取りだよって意味だと思っています。
(私の身体は本当にビックリするほど正直で感度が良いので、すぐに分かりやすくサインを出します)
これはもう、自分の感情に向き合わずに亡くなった母親のおかげで、反面教師的に学んだことでもあるんですけどね。
今お子さんがいらっしゃる方には耳が痛い話かもしれませんが、親の感情はどストレートに子ども(潜在意識の塊)が影響を受けます。
日々の生活の端々で親の理不尽な不機嫌や怒りを浴びせられ、もっと酷いと肉体的な痛みまで伴うことは、たぶん日本の家庭の中でそこまで稀有な話ではない。
そういった腐敗感情のシャワーによって子どもは「私のせいで親はこんな感情になってるんだ」「私が悪いんだ」と解釈し、刻み込まれる。ここに理性・論理は介在しません。
「親が感情的になることが悪い」と言っている訳では決してないですよ!
喧嘩や感情のぶつかり合いは、むしろ重要だし必要だと思います。(私は、それが出来ない家庭だったので羨ましいなぁ)
その前後のフォローが何もないままに親の感情を一方的に垂れ流ししていては、子どもは”親の下水処理場の役割”をしているのと一緒だということ。
むやみやたらに怒鳴り散らしたりすることだけでなく、私の母親のように不機嫌で何も言わずにムスッとし続ける・話し合いに応じない・言葉を発さずにモノに八つ当たりし続ける、なども含む。
それが子どもにとってどれほどのストレスだろうかと、私は自分の子ども時代を振り返ってみると、よく感じる。
というか、セラピーやカウンセリングを受け始めて事の重大さにようやく気が付きました。
そういう機能不全家庭で育っている人は尚更、これまで蓄積したストレスや腐敗した感情の量が桁違い。数値や目に見える何かで表せるわけじゃないけど、でも、身体にはベッタリとこびりついている。
それがどれほど厄介で、不快で、目を背けたくなるほどに嫌なものか……
(なのに、よく生きてる!本当にエライですよ、私たちは)
ということは、その蓄積した腐敗物をせっせと処理していくのには時間がかかって当然。時間をかけてあげて当然、ということ。
生まれ育った環境も、価値観も何もかも違う他人様の意見や下手なアドバイスは、allスルーで行きましょう。
私は自分の身体感覚、そこに伴う感情を成仏させる中で気付いたんだけど、
簡単に(その腐敗した感情を)消し去ろうだなんて思うな!どんだけ辛かったと思ってるんだ!ちゃんと見ろ!見やがれ!
って叫んでいるように感じることがある。そりゃそうだよね、ずっと蓋していたんだから。
生き埋めになった感情は死なないとはこういうことだし、「こっちを見やがれーー!!!」の最終形態として自他の目に見える病気が発生するんだなぁとつくづく感じます。身体ってすごいね。
どう向き合うか、いつ向き合うか、どうしたいのか、それは個人の自由です。どんな意思も尊重されるから「何が何でも向き合わなきゃダメだ」という訳ではないよ。
ただ私は、生き埋めの感情をそのままにしたくないから、全力で怒り、全力で憎み倒そうと思っているし、そうしている。それが、本当の意味で自分を大切にするということだから。
肉体を持って三次元世界で生きる私たちのリアルは、そう簡単に愛・感謝・ゆるしに辿り着くわけではない。”綺麗事”じゃない部分を経験したくて、今世こうして生まれてきたのだからね。
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