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「世のため、人のために」強い正義感の飼い慣らし方

私は、正義感が強いのです。
「自分のために」と同じかそれ以上に「誰かのために」という部分でものすごくエネルギーを使う人間だと思う。
特に「子どものため」「若者のため」という気持ちが強くて、それは自分が20歳までにちゃんと大人から守ってもらえた温かな経験も、全然守られなくてボロボロになった経験も、両方してきたからこそかなと感じています。

ただ、その「正義感」の使い方については、結構葛藤し続けているのです。

【誰かのため、世のため】というのは聞こえがいい。だからこそ、ちょっと疑わしかったりもします。
他者や社会の方を向いているようにポーズしながら、自己陶酔というか、自分の枯渇した部分を満たそうとするエゴが肥大化していると受ける側もキツイから(少なくとも、私には透けて見えてしまう)そういう方向に使いたくはない。

【私が誰かを救う、助ける】という思想も、また危ない。救世主という思想があると、必ず二項対立的な概念に縛られる。助ける人と、助けられる人。救う人と、救われる人。
生死にかかわる自然災害や事件・事故は別として、本来は助けられなきゃいけない人は居ないし、救われるべき人も居ない。だから「私が救ってあげる!」という言葉は、その言葉を発する人が「救う立場」にいることによって救われてる、つまり一番自分のことを救いたいのじゃないかと思うのですよ。(それは、悪い事じゃないのですけどね)


そう、正義感は常にこういった危うさと隣り合わせ。紙一重なのです。
それを重々分かっているからこそ、正義感の発揮の仕方に難儀している。


まだ健全に使いこなせていない現時点での私の結論としては、正義感を【自分のため・他者のため・社会のため】に使いこなすには、やはり「自分を癒す」ことで常に自分を見つめることが必要不可欠だと思うのです。

何かに対して傷ついたり、誰かを否定したくなった時にこそ、自分の内面を振り返るということを逐一やっていく。
特に、この数年はコロナの件に関して凄まじく分断が起きているけど、常に怒っている人や批判ばかりの人は怖い。社会のためだ、皆のためだ、何だと言っているけど、ネット上の言葉だけ見れば暴言や罵倒だけしている人だっている。行き過ぎた正義感、とても怖い。

何に怒っているのか、何を批判したいのか、自分の内面を見つめ気付かない限り、正義感という名の自己主張をブンブンと一人で振りかざすだけになる。でもそれって、本当は自分が一番辛いんだよね。行き場のない感情を受け止めずに、SNSという海に放り投げてるだけだから…。

だからこそ、常に内面と向き合う。今この瞬間の意識、感覚、感情をトラッキングする。そして、自律神経を意識的に整える。穏やかな状態に保つ。

それが、自他に優しい正義感の飼い慣らし方なのかもしれません。




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