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幸福日和 #070「目の前のことを見つめること」

これだけ美しいものが溢れる日常にいながらも、
自分はどれほど、そうしたものと真正面から向き合えているのだろう。

今の時代、目に触れるものがあまりに多すぎて、
多くのことを浅く広く「眺める」ことはあっても、
きちんと深く「見つめる」ということをしているだろうか。

ふとそんなことを考えていました。

空や海をなんとなく眺めている毎日ではあるけれど、
それは空(そら)ではなく、空(くう)を見ているだけではないか。

この孤島に来て日々を過ごすようになって以来、
ぼんやりと「眺める」ということよりも、ただそのものを「見つめる」ことを大切にしていきたいと心がけるようになった気がします。

「見る」でも「眺める」でもなく、
「見つめる」ということ。

どこまでも澄んだ空を、果てしなく広がる海の表情を。
若葉の上で輝く雫を、満ち引きするさざ波を。

ただただ、見つめる。

深くそのものに入り込んでいきながら、
近すぎて見えなかった、その先の世界に迫ってゆきたいと思うんです。


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思い返してみると、
僕は昔から、何かを「見つめる」癖があったことを
忘れていただけなのかもしれません。

東京に住んでいた頃、気がつけば僕はいつも何かを見つめていたんです。

当時、渋谷のスクランブル交差点を一望できるカフェによく通っていたのですが、その場所から人の行き交う光景をただただボーっと見つめることは、僕の一つの習慣でした。

カフェの窓から、

米粒ほどの人々を見つめながら、その姿が視界から消え去るまで、どこまでも目で追いかけては、その人の生活を思い描いてゆく。また、遠くに見えるカップルや夫婦の仲睦まじい姿を見つめながら、二人の会話を勝手に想像したりもしました。

眺めるではなく、見つめるんです。

そうやって、カフェの窓から人々を見つめていると、ひとりひとりの日常に自分もこっそり関わっているような感覚を覚えて、それが当時のささやかな楽しみでもありました。


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なぜ「見つめる」癖があったのかと考えてみれば、
それは常に、何かに「見つめらる」ことで、
幼いながらにその感覚を得てきたからなのかもしれません。



昔から、森の中で遊んでいたり、登山に出かけたりすると、
鬱蒼と茂る草花や巨木に、いつも「見つめられている」気がしたんです。

ザワザワと木々が微かに音を立てる下を歩きながら、常に四方からの気配を感じていました。眼などあるはずの無い木々や草花から視線を感じることが何度もありました。

自分の心は、常に自然に見透かされているのではないか。

そんなことを感じながら、自分もまた周囲を「見つめる」ということを知ったのかもしれません。

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この孤島に来て気がついたことですが、
海も空も毎日同じようでいて、全く違うんですね。
同じ時など一日としてありません。

眺めているだけでは見えなかったことも見つめてゆくことで、
違う景色がそこから浮かび上がってくるもの。

ゆったりと「眺める」気持ちも大切だけれど、
深く「見つめる」思いで世の中と関わってゆきたい。
その奥へと迫ってゆきたい。



そのように、日常の細やかな変化を感じながら、

一日一日を味わってゆきたいと思うんです。

そんなことを考えつつも、、、、、

最近は、この孤島にも心の底を見つめられている気がして、
どうにも落ち着かないんです、、、、、笑。

最後までお読みいただきありがとうございます。毎日時間を積み重ねながら、この場所から多くの人の毎日に影響を与えるものを発信できたらと。みなさんの良き日々を願って。