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7/6土午後2時半 歴史修正/歪曲映画「ゲバルトの杜」を批判するシンポジウムに集まろう!!パネリストコメント届きました!!!

歴史修正/歪曲 映画「ゲバルトの杜」を徹底批判 する  シンポジウム
日時:7月6日(土)午後2時30分開演(午後2時開場)
場所:新宿区角筈地域センターレクリエーションホール
(東京都新宿区西新宿4丁目33−7 :
京王線 初台駅下車 東口から徒歩10分:都営地下鉄大江戸線 都庁前駅下車(A5出口) 徒歩10分:京王バス新宿駅西口から(京王デパート前20番バスのりば)中野駅行き又は中野車庫行き 十二社池の上下車 徒歩3分:WEバス新宿駅西口から(京王デパート前21番バスのりば)A ワシントンホテル・西参道行き パークハイアット東京前下車 徒歩1分)

入場無料:先着90名(90名に達した段階で〆切ます)

(予約・問)morihihan@gmail.com

      【黒須・北新宿ひまわり会:7/6実行委】

お陰様で順調にご予約いただいております。お早目のご予約お願いします。予約はmorihihan@gmail.comまで予約人数と氏名(変名・匿名可)を頂くだけで可能です。

(2024/06/13)パネリストの皆さんから、コメントが届きました!皆さん、熟読の上 この醜悪な映画を共に批判して行こう!そして7/6土シンポジウムに結集を!今すぐ予約しよう!!

●絓秀実(文芸評論家)

川口大三郎事件についてはこれまでも繰り返し論じてきた。端的に言えば、それは日本の68年革命における反革命の顕在化した帰趨であり、それへの戦いだった。そして、映画「ゲバ杜」は淫靡に、その反革命を肯定している。この機会に、心ある皆さんと、広範囲に討論したい。過去の問題ではない。現在の問題である。

●菅孝行【文筆業(劇作・評論)】

1961年、全学連17回大会で、まだ中核と革マルが分裂する前の革共同全国委員会(マル学同)に敗北した「再建社学同」系に属した。連合赤軍事件被告の「公判対策委」世話人なるものを70年代末までやった。「ゲバルトの杜」の批判を「情況」春季号に書いている。「内ゲバ」には絶対反対だが、「内ゲバ」批判の一般論は無効だと思う。

●大野左紀子

1959年、名古屋市生まれ。東京藝術大学美術学部卒業後の1983年頃から、現代美術の分野で作家活動を始める。一時期、音楽活動を並行して行う。2003年、美術作家廃業。文筆活動に軸足を移す。著作は「アーティスト症候群」(河出文庫)、『「女」が邪魔をする』(光文社)、「アート・ヒステリー」(河出書房新社)など。共著は「ラッセンとは何だったのか?(フィルムアート社)、「高学歴女子の貧困」(光文社新書)など。詳しい経歴は以下のテキスト”「全共闘以後」の余白に小さい字で書き込む、私の活動”を参照して下さい。

https://ohnosakiko.hatenablog.com/entry/2023/04/06/215451

暴力には大きく見て「支配のための暴力」と「権力闘争のための暴力」と「抵抗のための暴力」がある。いつ終わるとも知れない「支配のための暴力」の中で、最終手段として取り得るのは「抵抗のための暴力」だ。これを否定することは難しい。しかしその暴力が数を頼んで強大になれば、「権力闘争のための暴力」へと発展するだろう。そしてまたいずれ、何ものかによる「支配のための暴力」が始まるだろう。

この中に、非暴力主義の出る幕はない。あったとしても一幕だ。もし非暴力主義があらゆる局面で永続的に貫かれているなら、世の中にいかなる暴力も存在していないはずだから。

「そしてようやく平和が訪れました」で終わるすべての物語は、そこで強引に幕引きをしているのである。幕の後ろではまた隠然たる「支配のための暴力」が胎動している。もちろん今、私たちのいるのは舞台の下の観客席ではなく、その幕の後ろだ。

●照山もみじ(金子亜由美)

専門は日本近代文学、特に泉鏡花について研究しています。「照山もみじ」の筆名で、同人誌『G-W-G(minus)』にて中島梓ややおい/ボーイズ・ラブについての論考を連載しています。

中島梓のいう「階級闘争」としての「やおい」について考察する過程で、川口君事件と、その後に生じた早稲田解放闘争の詳細を知ることとなりました。中島は、この事件から極めて強い「ショック」を受けると同時に、解放闘争からも「欠落」せざるを得なかったと回想しています。この「ショック」と「欠落」から、彼女固有の「言葉」の模索が始まりました。映画「ゲバルトの杜」を批判的に検討することを通じて、中島を批評/小説へと差し向けることとなった川口君事件と早稲田解放闘争について、様々な角度から議論していきたいと考えています。

●河原省吾

(関西の大学で教員をしています。専門は臨床心理学です)

1970年代末に京都の大学でノンセクトの運動に関わりました。数年前からツイッターでつぶやくようになり、同時に連合赤軍山岳ベース事件についてもっと考えたいと思うようになりました。川口さんの事件について、「彼は早稲田で死んだ」「ゲバルトの杜」に感じた違和感を言語化したいと考えています。

●花咲政之輔(早大立ち入り禁止処分者/太陽肛門工房主宰)

 映画「ゲバルトの杜」は現在の早稲田大学サークル新歓風景からはじまる。それが、平和な学園の象徴と言いたいのだろう。
 我々が2001年8月10日にサークル部室から暴力的に叩き出された後も早大の管理強化に対する闘いは続いた。
 主要な結節点として早大当局のサークル新歓規制に対する闘いがあった。我々の仲間(当時早大法学部生)はその過程で警察権力を導入され逮捕されるに至った。
 完全に規制され管理された現在のサークル新歓風景を理想化する代島・樋田。
 当局-革マル‐国家権力の三つ巴の管理体制(早大アウシュビッツ体制)によって山村政明は自死に追い込まれ、川口大三郎は虐殺されたのではなかったのか?川口君虐殺後澎湃として捲き起こった早大解放‐解体の闘いはその構造的管理体制を打ち砕く質を持ったものではなかったのか?
 代島・樋田は早大奥島元総長を「革マルを追い出した英雄」として賛美して止まない。しかし彼の行ったサークル部室解体と完全当局管理の新学生会館の建設で破壊/放逐されたのは我々ノンセクトと全ての自治自主活動の基盤であり、革マル派ではない。
 もはや革マルを間接的な闘争抑圧者/暴力装置として利用しなくても、大学当局の直轄管理により学内大衆運動を抑圧できると踏んだ奥島当局による自治/自主活動の破壊。
 反抗する人士が減少し、看守の数が減らされたかといって、収容所は収容所だ。
 うつろな目をしたムーゼルマン達の哀れな姿を「解放された活き活きとした現代若者たち」として描く代島・樋田の意図がどこにあるかは明らかである。
 早大当局と革マル派を賛美するこの映画を絶対に許してはならない。

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