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自己紹介ざっくり履歴① 「むしろ出る杭になれ、嫉妬は称賛だと思え」

こんにちは、あるいはこんばんは🌙

安岡 葉(よう)です。

少しずつ書いた記事を投稿させていただいておりますが、まだきちんと自己紹介していないので、興味のある方はどうぞ。
ちょっと長いので、分けて投稿します。

虐待とスピリチュアルを含む内容ですので、苦手な方はスルーして下さいね。


生まれる前からの胎内記憶があり、家庭では両親が離婚するまで虐待される。

・兄
跡継ぎといって大切にされ、アルバムが何冊もある兄と、一冊のアルバムすらなく、同級生のお母さんが撮ってくれた写真が数枚あるだけの私。
明らかな差をつけられながら、私のみ虐待を受け続ける。

・小学校時代の家事負担

家事と、朝起きてから床を全て水拭きが途中で追加され、謎の家事負担はどんどん増えていった。家事や掃除は嫌いではないのであまり苦にはならなかったが、修行だと思って続けていた。

・中学

中学にあがり、たまに学校に行けばいわゆるみんなの好きなもの、みんなが持っているものには全く興味がなかった。
マイノリティ過ぎて全く馴染めず、かといってクラスメイトに合わせるのも嫌なのであまり学校にも行かず。

当時から嫉妬され無視されることもしばしば。
特に腹も立たず、面倒くさいので放置。言いたい奴には言わせておく。

曾祖父には、「むしろ出る杭になれ、嫉妬は称賛だと思え」と言われ続けていたので、むしろ出る杭になることを貫くことに決める。

・脳筋体育教師

中学2年の時の担任は、脳ミソ筋肉の体育教師で、夜中ガラスが割られていたことと、クラスメイトの財布が盗まれたことを何故か私がやったと思い込む。
生徒指導室という名の拷問部屋で、椅子に縛られ殴る蹴る、椅子ごと投げられるなどの今なら一発でクビどころか傷害で警察に突き出されるレベルの暴力を振るわれる。私がやったと言わせたかったらしい。私は濡れ衣はごめんなのでずっと黙っていた。

普段から全く手加減なしの虐待を受けていたので、体育教師に殴る蹴るされても、多少手加減しているので血だらけになっただけでそう痛くもなく、途中から何故か面白くて笑っていたら逆に気味悪がられ、体育教師は逃げて行った。
私は椅子に縛られて動けず、他の教師が施錠しに来るまで血だらけで放置された。
謝罪もなく、中学2年はそれからほとんど学校に行かなかった。

・遅刻魔担任に救われる

中学3年になり、担任が変わった。
担任は自ら遅刻してくる変わり者で、ろくに出席もとらずあまり学校に行っていなかった私は大変助かった。
そして、この担任が虐待にきちんと向き合ってくれた初めての大人。
保健室で自分の傷の手当てをしていたときに、フラリとやってきて、それは誰にやられたのかと尋ねられたので、父親にやられたと答えた。

すると夜、父親が帰宅したのを確認して家まで来た。父親に虐待しないように話をしに来てくれたのだ。
その後は案の定父親にボコボコにされたが、そんなことより私は自分の心配をしてくれる大人がいるということが何より嬉しかった。
それから嫌いな学校にも行くようになった。

そして、その頃には、父親の攻撃をだいぶ避けられるようになり、空手黒帯の友人にさらに攻撃を阻止しつつこちらから攻撃を仕掛けられるよう、時々手解きをうけるようになった。

そして、高校に受かってしばらくして、父親の攻撃を見切れるようになっていた私は、父親を返り討ちにし、追い出すことに成功した。
そこからずっと家庭内別居状態だった両親の離婚裁判が始まった。


同じくらいの頃、小学校の時によく遊んでいた近所の上級生にバンドに誘われ、最初はボーカルとしてバンドを始めるものの、全く小遣いがなかったので、バイトを始める。
まだ中学生だったが、友人のお母さんに事情を話すと、友人のお母さんは何も言わず雇ってくれた。

カラオケ居酒屋だったが、カウンターしかない小さなお店で、私は主に厨房でお客様に出す食事や賄いを作る。
お店が暇だと、みんなでカラオケ大会をしたり、お客さんもとても良い方ばかりで楽しいバイト先だった。高校を辞めるまでと、東京から帰ってきて真面目に働き、車の免許を取ってからもお金のない時に時々バイトしていた。

休みの前の日も、よく飲みに行っては馴染みのお客さんとのんびり飲んだり、色んな話を聞いてもらったり、私にとってオアシスのような場所だった。

自己紹介②に続きます。
お読みいただきありがとうございます🙇‍♀️

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