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アルコールという名のトリガー

 酒の席に行くと必ずと言っていいほど異性関係の話になる。誰が誰と交際してるとか、誰が誰に気があるとか、誰が誰と肉体関係を持ったか………。異性関係の話をしに酒を飲みに行っているようなものだ。

 内輪の話であれば、それは噂話であり、ゴシップであり、基本的に必要以上の詮索はされないだろう。よほどデリカシーが欠如した人間でない限り、プライベートなことに首を突っ込みすぎないのが節度ある大人というものである。

 だが、内輪で完結するのではなく異性関係の交流関係が外部にまで及ぶと、彼らは未知の存在に対して異様な興味を示し始める。実際に顔も見たこともない、話をしたこともない人間の存在が気になってしょうがなくなってしまう。

 そんな話の中ではやはり、誰それの恋人の写真を見せろという流れになる。標的となった人間は仕方なく自分のスマホに保存されている恋人の写真を一同に開示する。中には嬉々として見せつける者もいれば、周囲の過激なまでの圧力によっていやいや画面を表示させる者もいる。
 そして、画面に映し出された対象の人間の品評会が始まる。

 女性の場合ならかわいい、かわいくない、華奢、ふくよか、家庭的、サバサバしてそう、頭よさそう、メイド喫茶でバイトしてそう、ポイントカード10種類ぐらい持ってそう、おにぎりの具にミートボール入れてそう、学生時代の体育祭の大縄跳び大会で縄回し役やってたけど力入りすぎて肩に軽傷負ってそう……。
 男性の場合ならカッコイイ、カッコよくない、仕事できそう、漫画喫茶でいびきかきながら居眠りしてそう、曇天の日でもサングラスかけて運転してそう、等々……。

 人々は写真を肴に各自の所見を述べ始める。実際に相対したわけでもない人間の人物像と、今同じ空間にいる人物との関係性を自身で想像し、補完する。
 顔面という視覚情報、性格という聴覚情報を頼りに「こういう女はやめといた方が~」「こういう男は地雷臭が~」と謎のアドバイスが始まる。

 こういう局面の時に、ふとテーブルの真ん中に置かれているスマホの画面を見てみる。映し出されている話題の渦中の人物の表情は変わらない。当たり前である。アハ体験の如く急に口元が麻生太郎化していったら怖い。

 しかし時折、写真に映し出されている人間の表情に妙な陰影を見出すことがある。テーブルで楽しく喋っている人間が恋人だと言い張るこのスマホの中の人間の笑顔が妙に哀切に、もの悲しく思えるのである。

 今頃居酒屋の席で自分が話題にされているとも知らず、この人間は何をしているのだろうと考える。
 花壇のパンジーに水をやっているかもしれないし、カレーライスを作っているかもしれないし、ヴァイオリンで「こち亀の両津が大原部長にどやされる時に流れてる例のBGM」を奏でているかもしれない(ちなみにそんな人間はいない)。

 もう、知らない人間に興味を示すのは疲れた。知っている人間にすら興味を示せないのにどうして見ず知らずの人間に対しての所感を持たなければいけないのか。

 芸能人の不倫騒動を「赤の他人のいざこざなんだからどうでもいい」と一蹴する人間は居酒屋に行っても他人の色恋沙汰に首を突っ込みたがらない、とは限らない。
 赤の他人ではなく知り合いの知り合いに興味を示すのは当然、逆に興味がなくては失礼だろう、という言論が展開されたらもう何も言い返せない。

 ただ、会ったこともない人間について話をするのにはそれなりの責任が伴うのではないかということだ。

 もう何に対しても責任を負いたくない。無論、人の人生に対しても。

 そうして、未婚化が進む。
 野は焼け、花は枯れ、大地は渇き太陽は沈む。




 今週のクロージングソング:The Beatles『Here Comes The Sun』



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