ロボットになりたかった、のか?
はじめに
中学生の頃、年度始めにクラスの中で自己紹介をしようという流れになり、自己紹介カードを書いた。
名前や好きな食べ物などごく一般的な事項が並ぶ中で、私にとっては一際目を引くものがあった。
「あなたの将来像」
質問の意図は、将来の職業や生活、広くは生き方そのものまで、なんでもざっくばらんに答えてもらえればよい、というものだろう。
当時の私は厨二病も完治し、突飛な思想に憧れる気質ではなかったが、答えとして書き込んだのは「ロボット」であった。
なぜ、「ロボット」だったのか。
当時の私の解釈
当時の私(今の私とは異なる人物であるので「彼」と呼ぶことにしよう)にとってのロボットと答えた理由はこうだ。
彼の主張は、いくつかの実体験から来ている。前者については小学校でいじめられた原因が他の男子と異なり女々しい性格だったことが、後者については中学生になり取り組むようになったディスカッションにて自分の主張を通すために必要だったことが主な原因だろう。
彼は、「無個性で、合理的な判断を画一的に下せる」存在としてロボットしか知らなかったため、ロボットを回答したのだろう。
彼の考え方は私から言わせれば些か理想主義が行き過ぎたように感じられる。
私の解釈
私の将来像は「コンサルタント」である。彼が将来像の内容として考えた2項について、それぞれ自らの見解を述べる。
前者について。そもそも人類とは、多様性の容認が種の最も大きな長所の一つであった。野生生物は種の存続のために群れに馴染めない個体を進んで排除してきたが、人間はそれを高い知性によって生まれた社会力で受容することで多角的に成長してきた。すなわち、完全に無個性であることはもはや許されず、個性を持つことが人類の個体として生きることの必要条件である。
しかし、個性は人間社会が受容できる範疇に限られる。あまりに異質な特徴は疎まれてしまうため、隠者となるので無ければ慎まなければならない。
したがって、私は社会に受容されうる程度の特異な点を持つ必要がある。¹
後者について。人間は元来、感情的に判断する生き物である。彼は知らなかったが、私はそのことを当時から今までの6,7年間で身をもって体感した。感情的に判断する生き物に対して過剰に合理性を追求することはただの無駄であろう。
また、AIが発達した昨今では、人間よりAIが優れている部分に関しては彼らに任せたほうがよいことが多い。合理性はその最たる部分であり、未だ複雑な事象に対しては判断が下せないようだが、近い将来人間はAIに合理性を引き渡すときが来るだろう。
そうした予想を踏まえると、私は人類の中で比較的合理的に考える個体に過ぎず、その合理化もAIに遠く及ばない(あるいは、及ばなくなる)。したがって、私はAIの下した合理的判断を、人間の持つ感情的判断に毅然と立ち向かって主張し、一方で感情的判断を否定することはせず、その混合物・折衷案というべきものを模索すべき立場にあると考える。
まとめ
私は彼の将来像をアップデートした今の将来像を特に部分的合理性と呼んでいる。専攻分野の学修の中で、私は人間が数理的に合理的な判断を下し続けることがいかに難しいかを学んでいる。
多様性の容認(尊重とは異なる²)と他人への積極的な理解。原始時代を生きた人間たちと比べて、今の人間たちはより広い範囲の多様性が認められるようになってきた。しかし、私はそうなった現在でも、我々が繁栄することになった主要因である上記の2つは、失ってはいけないものだと信じている。
註釈
その特異な点を長所とみなすか短所とみなすかは当人のいる社会の性質による解釈にすぎない。
多様性は容認されるべきだか尊重される必要は無い。種の繁栄に必要なのはほとんど全ての個体が多様性を「容認」することであり、多様性を「尊重」できたペアが実際に番となって子孫を残せばよい。すなわち、多様性の尊重はほとんど全ての個体に課せられたものではない。
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