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意識の中身を空にする

こんばんわ、Karo.です。

今日は地震の影響もあってか、ひさしぶりのけっこうな雨でした。

朝、雨の音を聞きながら瞑想をしていたら、雨と溶け合うような静かな時間が持てて、とても気持ちがよかったです。


こんな雨の日はゆったり部屋ですごそうと、ベッドサイドに積んでいた本の中から、何気に何冊かの本をパラパラとめくりました。

そうしたら数年前にハマって、何冊か読んでいたクリシュナムルティの「生の全体性」という本が目にとまって「瞑想とは、意識の中身を空にすることである」という章を読んでいたら、改めて「ああ、やっぱりいいこと言ってるね、そうだった。そうだった。」と思ったので(笑)、一部引用してご紹介します。

瞑想は、生において最も重要なもののひとつである。しかし、重要なのは、どのように瞑想するかでもなく、方式に従った瞑想でもなく、瞑想の習慣的実践でもなく、むしろ瞑想そのものである。
...(中略)...
心理的な意味において、あたかも鏡のなかの自分を見るように実際にあるがままの自分の姿を見ること、そうすることによって自分自身の構造そのものを変容させること  ー それがいかに途方もなく重要であるかを、人は理解できないようである。
そういう変容、変換を根本的、徹底的に為し遂げるとき、その変換は人間の意識全体に影響を及ぼす。これは絶対的な事実、真実である。
もし人が本当に真摯なら、もし人が世界の現状  ー 世界のひどい悲惨、混乱、不安定な状態、さまざまな宗教や国家間の分裂や戦争、国家の名のもとに戦争を準備し民衆を殺戮するために、膨大な金額を費やして軍備を増強していることなど ー  に目を向けるなら、根本的な変容を成し遂げることが極めて重要になる。
実際にあるがままの自分を見るためには、自由であることが不可欠である。自分の意識の中身すべてからの自由、思考によって組み立てられたいっさいのものである「意識の中身」からの自由があることが不可欠である。自分の意識の中身からの自由、自分の怒りや野蛮さ、虚栄や傲慢、自分がとらわれているもの全てからの解放、自由 ー  それが瞑想である。
あるがままの自分を見ること自体が、すでに変容のはじまりである。瞑想とは、内面的に、したがって外面的にも、あらゆる衝突や葛藤の終焉を意味する。実際のところ、内面や外面というものはない。それはあたかも海のように、満ち干きしている。
瞑想の役目は、内面的に、したがって外面的にもあらゆる葛藤を完全に消し去ることである。葛藤を消し去るためには、この基本原理を理解しなければならない。「心理的に、観察者とは実は観察されるものにほかならない」ー。
怒りがあるとき、そこに<私>はいない。だが、一瞬後に思考が<私>をつくり出し、「私は今怒った」と言う。そして、「私は怒るべきではない」という考えを持ち込む。だからまず怒りがあって、しかるのちに、怒るべきではない<私>が出てくる。その分裂が葛藤を生むのである。
観察する者と観察されるものとの間に分裂がなく、したがって、あるのはただあるがままの実体、すなわち怒りだけだとしたら、そのときには何が起こるだろうか?
怒りは続くだろうか、それとも怒りは完全にやむだろうか?怒りが湧き上がっても、それを目に留める者がなく、分裂もないとき、その怒りは花開いてそしてしぼむ。さながら一輪の花のように、それは咲き、枯れ、そして消え去る……。しかし怒りと闘っているかぎり、怒りに抵抗し、怒りを正当化しているかぎり、人は怒りに活力を与えるていることになる。


最近は、毎日瞑想三昧な生活をしています。

新しく書きたいことも、いろいろとあるのですが、
しばらくは、集めた欠片のピースを少しずつ...。

ちょっとゆっくりペースで進めていきます。


ではでは、今週も素敵な時間をお過ごしください。



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