カメムシとスケッチブックと白洲正子 〜父の旅立ちに添えて
こんにちわ、Kaloです。
バタバタしていて、なかなかnoteを書く時間が取れなくて。
やっと今日、完全オフ(な気持ち)となったので、
noteの画面に向き合っています。
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過日、10月のスーパームーン満月をちょっとだけ過ぎた日の朝、
大きな月に召喚されるように、父が天逝しました。
91歳でした。
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その日の朝、息を引き取る30分くらい前に、介護をしていた母から「そろそろかもしれないから...」という電話があって。
ここのところ何度か、そうした連絡を受けて実家に行っていて。
母曰く、私が行くと、それまで苦しそうにしていた父がなぜか穏やかになって、持ちこたえる。という感じだったらしく、その日の5日前にも、実家に行ったところ、それまで熱を出していた父が、その日、酸素飽和度も安定して、介護サービスの方々にお風呂に入れてもらうことができて。
気持ちよさそうにお風呂に入れてもらう父を見て帰ってきました。
「わかった。じゃあ今日、夕方になるけれど行くね。」と伝えた後、
1時間ほどして義姉からLINEが入り、30分くらい前に父が息を引き取ったということでした。
「えっ?」
急いで母に電話をしてみると、苦しそうだから、と、看護師さんを呼んで。
看護師さんが来たところで、安心したのか?
肩で息をしていた呼吸が止まり、すっと「息を引き取った」そうです。
その直後に、母が「お父さん、お父さん」と声をかけると、
口をぱくぱくとする。ということを2回繰り返して。
3回目はもう動かなかった。と。
その様子を聞いて、まさに「息を引き取る」なんだと。
あらためて日本語ってすごいな。と思いました。
「呼吸」は生きている。吸って吐く行為は、生きている行為。
「息」は「生き」で。
「息」は「自」と「心」という字でできていて。
それを「引き取って」「逝く」。
なにか、すべてが重なって深い意味があるんだなぁ…。って。
ーー
電話を切った後、あれ?そうかぁ〜…30分前くらいって、私、何していたっけ?と思い返していました。
確か、ここ数週間、ベランダに住んでいてちょくちょく顔を見せていたカメムシが、その頃、ちょうど網戸の際に来て、部屋の中に入ろうとしていたので、「うちに入ったら、猫たちにやられちゃうよーー」と、
白い紙で誘導してベランダに戻してあげて、しばらくカメムシと喋っていたなぁ...。と。
実は父は、その前の晩だったか?(母もちょっとうる覚えらしいのですが)
突然両手をあげたので母が「ハイタッチ!」と言ってハイタッチをしたところ、うれしそうに右手でピースサインを作って見せてくれたそうで。
母は「ピースのつもりが3本指になっていたけどもね」と(笑)。
私は多分、その夜はハンドパンの焚火会に参加するため新潟へ行っていて。
私が「日本海を観たい」と言ったリクエストに答えてくれて友人が、びっくりするほどの暴風雨の中、日本海まで連れていってくれました。
感謝です。
ちなみに、この時の海へのドライブの車中で友人は
「この前の満月のインスタライブの時、言わなかったけれど、ザーーーーッていう雑音の中に「なんまいだーなんまいだー」ってお経の声がずっと聞こえていたの。」と言いました。(時系列、これ、まだ父が亡くなる前です)
私は、この頃、なぜだか、数週間前から瞑想の最後に大日如来さまを胸に招待して「南無阿弥陀仏」を108回唱えることを日課にしていて。
それを唱えている時、祖母(父の母)が仏壇に向かって毎朝唱えていた姿が見えていて、私は毎回、祖母の背中を見ながら、「南無阿弥陀仏」をとなえていました。
なので、この時はそのせいかな?って思っていました。
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ちなみに、
私の両親は、ともに富山県出身で、日本海沿いの街に暮らしていました。
私も小さい頃はよく、日本海の海水浴場に連れていってもらい、
一度は浮き輪からはずれてしまい、ぶくぶくぶくぶく....と海に沈んで
溺れかけた経験があるのですが、それでも海といえば「日本海」って感じで
我がDNAに刻まれていまして。日本海の白波を見るのが大好きでした。
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ここ数年、父に住所を尋ねると、
富山県のいまはなき実家の住所を言っていたそうです。
母「お父さん、どこに住んでいるの?」
父「(富山県)岩瀬だよ」
母「じゃあここは?」
父「????(よくわからない)」
そして父は「今日はここに泊まっていくの?」と母に聞いていたそうです。
ちなみに父は港湾関連の会社に勤めていて、若い頃は、富山湾から出る船にも仕事で乗っていました。
現在両親が住んでいる家のほうでは、火葬場がいっぱい?とのことで、葬儀をあげるまで10日も待たなければなりませんでした。
その間、仲介してくれている葬儀会社に遺体を保存していただいていて、
実家から近い場所だったため、母は毎日のように会いにいっていました。
父はシャレオツだったため(笑)、葬儀の日、お棺に好きだった服や帽子を入れてあげ、お酒も大好きだったから、入れてあげようね。などと
ギリギリまで話していて、どのスーツにする?帽子はどれ?と母と一緒に選んでいました。
ーー
そうして葬儀の前日の夜に、ふと、「あ、絵を描くのが好きだったよね」
と思い出しました。
晩年の父ばかり見ていたので、昔の父の記憶が飛んでしまっていたけれど、
そういえば、水彩画にハマって多摩川に散歩に行っては絵を描いていた。
あ、そうそう、そういえば本を読むのも好きだった。
小さい頃、父の部屋に入ると壁一面に本棚があってたくさんの本が並んでいた。父は丸善が大好きで、丸の内の丸善に行っては本を買い、丸善に行っては帽子を買い、丸善に行っては服を買っていたのでした。(笑)
確か父が使わなくなったスケッチブックをもらってきたことがあったので
それを探して。あ、絵の具は燃えないからダメかな?と思い、本当は水彩の色が好きだったからパステルか色鉛筆も一緒にいれてあげたいな。
と思ったのだけれど、うちにピンとくるものがなかったので「鉛筆で我慢してね。」と私が使っていたHBの三菱鉛筆を描きやすいようにカッターで削って、スケッチブックの脇に刺して。
そういえば、以前、父の本棚から本も何冊かもらってきたな。と思い出して。確か本棚に同じ本が2冊あって、装丁がとっても綺麗だった本があった。厚紙カバーが外側についていてブックインブックになっていたやつ。
あれ?なんだっけな?と、うちの本棚を探して、
見つけたのが、白洲正子さんの本でした。
持ち帰って全然読んでなかったけど(笑)、これもお棺に入れてあげよう。
でも読み飽きちゃっていたかもしれないから、私の本棚から、中西進さんの「詩心」という文庫本も一緒に入れてあげることにして。
母もいっぱいいっぱいだったし、
多分、これを入れてあげよう。って気づくのは私だけだな。って、そんなことを思いながら、葬儀前日の夜に追加でお棺にいれるものを用意した。
ーー
翌朝、葬儀場に着いて。
義姉は、父がお酒が好きだったから、と、紙パックの日本酒を買ってきてくれていた。「紙だからこのままお棺にいれられるし」と。気が利いている。
ふたりの甥っ子たちは、それぞれに手紙を書いてくれていた。
優しいなぁ〜。私がその歳の頃、そんなに優しい気持ちだっただろうか?
と思いつつ、先に天上に行っている兄に「優しい息子たちに育っているよ」と心の中でつぶやいた。
そして、私が昨夜用意したスケッチブックと本を鞄から取り出していると、
母もゴソゴソとなにやら取り出していて。
なんと!
母もまったく同じようにスケッチブックと鉛筆と、
さらに気がきくことに6色くらいの色ペン。
そして白洲正子の文庫本を持ってきていた。
「げーーーっ!!!まったく同じモノ持ってきてる!」(爆笑)
まさかの白洲正子までが被るとは思わなかったし。
「お父さん、白洲正子が好きでよく読んでいたのよ」と言う。
私の小さい頃の記憶では、伊丹十三の本が何冊も本棚に入っていたイメージしかなかったから、白洲正子をよく読んでいたなんてことも、知りませんでした。
さらに母は、「コーヒー好きだったから」と
コーヒー豆をジップロックに入れてきていました。
さすが母、お見それしました。
そういえば、
カメムシは、父の葬儀の前日に見かけて以来、姿を現さなくなりました。
父との「サシ」での直接的な思い出は、実はあまりなくて。
実は小さい頃は、父が近づいてくるだけで泣いていました。
まぁ、私がお腹にいる頃に、両親もいろいろあったようなので
何か胎児の時の記憶?的な影響だと思いますが。(笑)
若い頃は父と母はしょっちゅう喧嘩していましたし。
(どちらかというと母が怒り散らかしていましたが(笑))
んーーーー...。そういえば。と
思い出してみれば、父が部屋に巨大なステレオを買って、なぜか「クラシック名曲アルバム」の豪華12枚セットのレコード(当時の時代、こういうの流行っていた)を買ったので、小学校低学年の頃は、父の部屋で毎日のようにクラシックを聴いていましたが、もしや、いつも機嫌が悪い子供だったから聴かされていたのかな?(笑)
私は20代くらいまでは、父をウザがっていて、本当にかわいくない娘だったのですが、父自体は穏やかで、いつでも、なにをやっても何歳になっても「すごいね」と褒めてくれるような父だったなぁ。と思います。
ーー
母はずっと働いていて、残業で父より母の方が遅くなることが多くなって、私が中学生の頃は、父が料理本をいっぱい買ってきて、謎の夜ご飯を作ってくれていました。
謎、というのは、父は、もともと朝からオートミールとか食べちゃうような、当時オシャレかぶれみたいなタイプだったので、小中学生の私には理解できず。いつも謎なものを食べていると言った印象で。
でも唯一美味しかったなー。と覚えているのは、
金時豆と玉ねぎとパセリのサラダで、お酢でできた謎の液体に豆と玉ねぎたちが浮いているという風情のものでした。(笑)
あれはたまに食べたくなります。
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30代後半の頃だったか?私が実家の近くで暮らしていた頃、
父が庭の木を切っていた時だったか?ざっくりと親指を切りまして。
かなりな出血をしていて、
母に頼まれて、近くの救急病院まで父を連れていったことがありました。
父は道すがら、「大丈夫、大丈夫、こんなの(放っておいても)すぐ治る」と言い「お母さんは心配性なんだよなぁ」と言いながら歩いて行って。
結局がっつりと何針か縫われていましたが(笑)。
夕方、人気のない病院で40代くらいの医師に診てもらう風景、暗い待合室、帰りの道をふたりで歩いた坂道の光景と。
その時に何を話したかはまったく記憶にないのですが。
ただ、両親はずっと喧嘩ばっかりしていたけれど、仲良しなんだな。と、愛を感じた瞬間があって、嬉しくなって、ほっこりとした気持ちになったことだけは、鮮明に覚えています。
夏を過ぎた頃から、父は寝たきりになり、最後に会った時には
私の顔がわかっているかな?どうかな〜?っていううつろな感じで。
心の準備を少しづつさせてもらえる時間があったので、
あまり涙は出なくて。
旅立った後、最初に声をかけた言葉は「おつかれさま」でした。
そして「ありがとう」。
父の存在自体に、ただ、感謝しかありませんでした。
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私は昔から母にそっくり。と言われていましたが、歳を重ねるごとに、
身体の中に父のDNAを感じるようになってきていたので。
父は私の中に生きて在り、私は父でもあるのだなぁ。と感じます。
父と、父が自宅で最後まで過ごせるように支えてくれた
看護師さんや介護士さんたち、訪問医の先生、皆様にただただ感謝です。
どうもありがとう。
そしてパラパラと思い出話を書いてしまいましたが、
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
xxx.Love.Love.Love.
サポートいつもありがとうございます。みんな大好き❤️