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義足をつけることに、希望爆発

(人によってはセンシティブな内容です。う!となる方もいらっしゃるかもしれません。表題から予想される内容で、読むかどうかご判断ください・・・。)





うちの伴侶は、左膝下義足である。
25年前、34歳頃に、事故でそうなった。
で、最近いろいろな事情があって、義足を作り直している(2年に1回くらい作り直すんですが)。

伴侶「今日義足屋でさ、足首が一方向に曲がるタイプの義足をつけてみてくれないか、って言われてさ、つけてみたんよ」

義足は普通、足首の形は固定されている。動かない。だから、坂道は苦手だ。夫も、階段を上がるときは足を少し斜めにするし、急斜面になると、体を横にして、スキー板で登るように上がるようにしている。基本的には斜面は歩かない。
足首が動かない代わりに、その部分にバネのようなものが入っていて、踏み込むと反動がきて足が上がりやすくなっている。

伴侶「その義足は、足首が動く分、バネが入ってないのね(違う義足もあるかもしれません)。足を上げるときは、腿の力で持ち上げないといけないわけ。膝下でも結構な重さがあるから、腿は相当疲れるし、歩きにくいな、と俺は思った。」

義足は、大体その人の「本来ならついているはずの足の部分」の重さと同じにしてある。体のバランスを取るためである。

伴侶「なんで、つけてくれ、って言われたかっていうとね、最近、初めて義足をつけるお客さんがいてね、その人さ、10年間で6回くらい切断したんだって(←ここの情報は不確かです)。で、もういよいよ、切らない、ってとこまできて、ようやく義足を作る段階になって、もう嬉しくって嬉しくって、あれもやりたいこれもやりたい、ってエネルギーがものすごくて、山登りもしたい!ってことで、義足屋が足首が曲がるタイプの義足を取り寄せてみたんだけど、実際どうなのか、他の義足を経験している人に履いて試して欲しかったんだって。それで、お願いされたわけ。」

足を何回も切断する、というのは、同じ足を切断して、だんだん短くなってくる、ということだ。”機能するのであれば、なるべく、機能するところまで足は残すべきである”という、誰もが納得する理由で、切断する部分はなるべく少なくするのがセオリーである。しかし切断してみたところ、どうもうまくいかないから、もう少し切断・・・ということが、起こりうる。
実は、伴侶も、2回切断した。1回は足首で切って、2回目は膝下で切った。複雑骨折で壊死が始まっていたのだが、足首で止まるかと思っていた壊死が、止まらなかったので、膝下、となった。

本人が、最も辛い。が、周りも結構辛い。
私が経験したのだが、切断した足は、死体の一部なので、自分で火葬許可証を役場でとって、火葬場に自分で持ち込み、火葬しなければならない。
棺の代わりになるような箱と、ドライアイス、そして骨壷を自分で用意しておいく。手術日に合わせて、火葬場も予約しておく。
手術中に切断された部分がその箱に入れられて、私に渡される。そして私は、それを車に乗せて(または一回家に持ち帰って)、翌日あたりに火葬場に持ち込み、火葬してもらい、灰を持ち帰るということをやる。
1回目は、もう必死で、適した木の箱を探し、ドライアイス屋でドライアイスを購入し(そこそこ塊でもらわないといけない)、仏具屋に行って考えた挙句、子ども用の小さい骨壷を購入し、市役所に申請し・・・。
2回目は、もう木の箱が見つけられず、疲れ果てていたので、そこまで追求もできず、小さめのダンボール箱に、子どもと一緒に千代紙を貼った。

1回目の火葬の時は、もう、事務的な気持ちが強くて、火葬場に、長袖TシャツにGパンで行ってしまった。他に誰もいなかったから良かったが、「あ、ここはこんな軽装で来てはいけない場所だった!他の方がいたら、大変失礼だ!」と気づいた。そこで2回目は、喪服まではいかないが、黒い服に着替えて行った。その時は、大往生した方の葬儀だったのか、火葬場は高校野球などを見ながら人がわいわい賑わっていた。が、私が名前を呼ばれ、子ども用の骨壷を抱え、たった一人で火葬場を去る時は、もう、皆、シーーンとして、黙って私を見つめ、私も仕方ないので、姿勢を正して一人で、コツーンコツーンと靴の音を鳴らしながらその場を去った。(伴侶の足の骨壷は今は仏壇にある。葬式をやって墓に入る段になったら、一緒に墓に納めようと考えている。)

そんな経験は、足を切断した本人の乗り越えなければいけない壁に比べれば、大したことではないのだが、そういう精神的なダメージも受けつつ、パートナーを励ましたり、叱咤したり、生活回したり、というのも、なかなか、思い出すだにハードである。

それを、6回もやったのか・・・!想像を絶する。
ご本人も、未来の地図が描けず、またも切断しなければならない、となるたびに絶望しただろうと思う。

そこからの反動で、もう、足は切断しない!あとは義足で歩けるようにするだけ!となると、それはそれは喜びが爆発するだろう。

私と同じ歳の友達も、義足だ。
彼女は高校生の時に足が病気になり、その治療に10年を要した。最終的に「これは切断するしかない」となった時、彼女は、すごく明るくなった。そして、義足ができてからの彼女の行動力は、ド外れていて、武勇伝も数知れず。私も、そんな彼女にすごく勇気付けられていた。(だから、人よりも夫が義足になることの抵抗感は弱かったかもしれない)

義足をつけることになった時、その足を恨めしく思う人もいるだろう。
一方、義足をつけることが、嬉しくて嬉しくて仕方ない人もいる。
そういう人は可哀想なんだろうか? 希望に満ちて、あれもやりたいこれもやりたい、そして挑戦しまくっていく人生は、不幸だろうか?側から見て「可哀想だ」と判断されて、それなのに幸せそうにしていると、みじめだろうか・・・?無理をしているように思われるのだろうか?

自分軸で幸せであればいい。
その幸せを、他の誰かが何か言っても、揺るがないくらい、自分軸があるといい。
私は、〜〜だから、幸せなんだ!と、一度感じた幸せは、確かなものとして、噛み締めた方がいい。
次の幸せは、多分その上に積み重ねられるから。

それを見て、周りは「元気をもらいました!」とか言うんだけど、
それはそれで、良かったね、と思うけど、
自分軸からは、あまり関係がない。

山登りに挑戦しようと思っている、その義足の新人くんも、紆余曲折・試行錯誤は必ずあるだろうけど、
どうか、今の喜び爆発を大切にして、ガンガン人生を前に歩いていって欲しいと思った。
そして、うちの伴侶も、私自身も。


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