オファー受け入れ決断の決め手・上(52歳の田舎のおばさん留学記7)
2月上旬。ついに決断の時が来てしまった。5日以内にこの大学を受け入れるかどうか返事をせよ、ただ、断った時、次のオファーが来る可能性はゼロだからね・・・ってー、書き方ではなかったが、そうとしか受け取れない英文がやってきた。
とりあえず、奨学金の検索するだけならいいよね。
とりあえず、説明聞くだけならいいよね。
とりあえず、書類出すだけならいいよね。
とりあえず、せっかく受かったから面接行ったっていいよね。
と、
今までの私は、本当の決断は、引き延ばしていたかもしれない。
1月上旬の2次審査の面接を浮かれ気分で受けて、もう絶頂期を通過した気持ちだった欲のない私(?)のところへ来た通知は、「あなたは、よくやったよ。そのままのあなたで立派だったんだよ」と言ってくれているような気がした。
いつも「表舞台」という書き方をするが、本当に、誰にも知られないような努力を家と家の周りだけで孤軍奮闘していた私にとっては、これは、表舞台・表社会から、井の中の蛙にひらひらと舞い降りてきた光り輝く通知に見えた。
「やったー!!」その一点を持ってのみ、私は一人でバンザイ三唱をしてジャンプしまくった。
そして、ガタガタと震える手で、「行先」として示された大学を検索した。その地域も検索した。
何を考えたらいいかわからない。
嬉しさ半分、つかみどころのないものすごい不安半分。
何も手につかず、何度も通知や説明の英文を読み直し(プリンターで印刷して)、検索かけたり、地図見たり、家の中をウロウロしたりしまくった。
まず、条件が良かった。
この奨学プログラムは、受け入れの大学の体制や希望によって、奨学生の待遇はまちまちである。
家賃・食費・授業料が最低限保証される。これは大前提。
しかし、家賃一つとっても、寮を提供する大学もあれば、家賃相当額を支給して部屋は自分で探す大学もあるなど色々だし、食費もそう。
私にオファーのあった大学は、
住居提供(家賃なし。もちろん水光熱費も全て向こう持ち。家を探す手間が省ける!)、1日3食使える学食(ミールですね。いざというときも飢え死にしない!)カード無償提供、授業料は1セメスターあたり2講分計4構分提供。
そして、それに加え、
健康保険提供(アメリカの健康保険!)、
さらに月々約4万円のお小遣い提供(赴任してみると8万円)だった。
それから労働条件は、読むだけでは不明ではあった(これが後々・・・・)。
就業時間と日本語授業の内容はざっくり書いてあるが、これがハードなのか、そうでないのか、私にはほぼ判断できなかった。でも、働かなきゃいけないのは1日おきっぽかったし、それならなんとかなるんじゃ?と思った。
ただ、この待遇の良さは、労働内容の厳しさを表してもいたのかもしれない・・・・(それはまた後で)
この奨学プログラムが契約されるまでのプロセスは結構煩雑だった。
まず、
3次審査通過のお知らせが来て、
それから2週間くらいして上記の具体的大学のオファー。すぐにWebで日本人スタッフによる個別説明。
私がOK出したら、今度は財団が向こうの大学へ「この人でOK?」と打診。
1〜4週間して向こうの大学から「OK!」が来たら、
ここでやっと正式契約手続き書類を作成することとなる。
このとき、各大学赴任前にサマースクール(ワシントン大学!)で「日本語教育法」の授業を7週間みっちり受けるので、その講座の申し込みもする(この奨学プログラムを2回受ける人とかもいて、そういう人はサマースクールに参加しなかったりする)。この講座が結構高い!ここで考えてしまう人もいるんじゃないかと思うくらい高い。
しかし、私には長年貯めたタンス貯金があった。
そして、上記写真のような計算は、田舎で子育て・介護をしながら小さい個人塾を開いてぽつぽつ暮らしていた私には、ミリオネラ!(日本円で)って電飾バチバチの紙吹雪ものであった。
加えて処遇の良さ(と、思った)。
井戸の中の蛙にひらひら舞い降りた、光り輝く表社会からの通知・・・・。
やってみなはれ
やってみなはれ、あんさん
何も見えない濃い濃いモヤの向こうから、うっすら光る光の玉が、くぐもった声で私に呼びかけている・・・。
やるしかないよね?!
「行ッタ方ガイイデショ。ヨイショー!」可愛い声の小人たちが下からも押し上げる。
その正体は、次回。
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