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所有物について

夫婦がいて夫のほうが給料が高いとするなら、彼は自分が生活費を握っているという「暴力性」を秘めていることに自覚的になったほうが悲劇を避けられるのではないだろうか。「誰のおかげで生活できると思っているんだ」と突きつけながら専業主婦の奥様を早死にさせた男と私は血縁にある。

過日、置いていた荷物を引き取るために彼の家に行った。会うのは今日が最後と決めた余裕が出て、2時間ほど雑談をし昼食を共にした。気安い様子の裏を知らない彼は終始幼児のような笑いを浮かべていた。真っ当な場所で稼いできた自分は「正しい」から、誰かを傷つけている可能性を微塵も考えたことがなく欠落感や負い目を感じたことがないまま老いた童子の笑顔であった。

いつも他責にして自分自身について思い悩んだことがない人間というのは確かに存在すると改めて認識した。こういう輩からは黙って距離を取るのが最善の策である。

かつて彼は一流企業の高給取りであることを掲げ、奥様を50代の若さで我慢による過労で死なせたことがある。

彼の頭の中からしてみれば「事実の確認」である。円グラフを描き収入の出どころを一覧にしたら大多数が自分が勤めている会社で、数字が表す事実というわけである。暴力の意図がないというのがタチが悪い。悪気がないから何度も繰り返すことができる。奥様がどう感じるかには関心がない。

もし遺伝先のひとつである私が男で同じぐらい稼いでいたら配偶者と子供に対してそういう態度を取るのだろうか。

別に彼は人間が嫌いなわけでもなく軽蔑しているわけでもなく、自分以外の他人に関心を向けることに不自由なのだろう。頭の仕組みレベルでおそらく「誰かを愛する」ことができない。そこに欠落感や負い目を感じたことがないまま老いた男である。死が唯一の治療法であろう。相手が自分のこだわりに沿わなければ理路整然と癇癪を起こす。縁が薄い私もとばっちりを受けたことがある。

そのこだわりに絶えず応えようとするなら彼の「所有物」に成り下がるほかない。彼は配偶者と血縁者を自分の所有物と見做してきた。

「親は必ず子供を愛している」という言説は心理学による大衆への迎合でしかない。気質的に自分の色眼鏡から出ようとせず他者を「愛する」ことができない不具者が現実には存在すると言ったほうが私は納得できる。そうした者も動物として子孫を作ることは可能である。「愛せる」か否かは無関係である。

誰とも親しくなりたくない。親族と同じようにその人を咬み殺そうとする本能のような本性がいつ顔を出すかが恐い。幼い頃から体に染み付いたものをないものにはできない。反射的に凶暴が噴き出したら相手の精神を滅多刺しにしてしまうだろう。私の本性はその血みどろを啜って満足するのかもしれない。

私は所有物にしようとしてくる親族から逃げてきた。しかし誰かと親しくしようとする時、今度は自分がその人を所有物にしようとするのではないだろうか。