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「綺麗さ」「清潔さ」による汚染から抜け出すには-「社研」と言う形で人文社会科学に触れた経験から

この記事は,以下の書評,および書評で扱われた松井彰彦「高校生からのゲーム理論」(ちくまプリマー新書)を読み作成したものである.


私は経済学や社会学といった社会科学や,哲学や歴史学といった人文科学を専攻してはいないが,それらの学術領域にて学生が自主的にゼミを開き,論文を執筆するサークル-「社研」に属していた.ゆえにケインズ経済学やマルクス経済学などについてはある程度耳学問をする機会があった.その中にはもちろんゲーム理論も入っており,今のコンピュータ,およびコンピュータサイエンス(あと数えきれないほど色々)を創り出したジョン・フォン・ノイマンが深く関わっているのもあって,囚人のジレンマナッシュ均衡くらいの概念は頭に入っていた.そのため,この本を読んでも詰まるようなところもなく,ほーんと言いながら読み進められた.なので,本記事ではゲーム理論を議論するというよりも,私が人文社会科学について触れて得た経験等について,全般的な議論を行うという形になると思う.

この国では,社会科学や人文科学はなぜか自然科学よりも「高級」なものではないという扱いを受けてしまっているが,「社会」や「人間」という存在は自然よりも遥かに複雑極まりないものだと私は感じている.むしろ,数式やある概念にて扱い切れる「社会」や「人間」の要素にあまり価値はなく,いくら用いても表しきれない要素,ある意味ドロドロとしたあまり綺麗ではない要素にこそ「社会」や「人間」の価値があると感じている.これは,私が旅行等で訪れた飲み屋,またサークルBOX(いわゆる部室)にて発生した会話経験をはじめとする,様々な体験から導き出した解答である.それらの場所や体験は,なんらかの概念等で表せるような「綺麗」なものではなく,偶然や気まぐれ等に満ち溢れたものだった.そこにコスト/ベネフィットなど「わかりやすい」指標などは存在せず,ただ各人が気ままに喋り,時間を過ごしていただけだった.何も目的としない,何も「求めていない」,そのような場所や体験にこそ真に面白いものは発生しうるのである.

その意味で,「社会」や「人間」を全て解釈し,理解可能だとするような(自然)科学偏重主義,それに端を発する近代経済学偏重主義が跋扈している現況の日本社会は一種の「病んでいる」状態にあると感じざるを得ない.そう,「綺麗さ」「清潔さ」に「汚染」されてしまっているのである(参照:中央大学だめライフ愛好会「【今更】だめライフ愛好会とは?」).我々は,個々人の「自由」「平等」を追い求めるあまりに「一片の曇りなき,穢れなき自由さ,平等さ」によってこの社会や人間を洗い流してしまった.それは一種の抑圧であると,少なくとも何らかの目標を持ち,それに向かって努力できるような「綺麗な社会」が求める人間像に合わせることを行いにくい人たちにとっては抑圧であると意識せずに.

そして,「いくら偏見に塗れていることを自覚しようとも,自分の頭で,身体を用いて考えたい」と考えている私にとってもそのような「綺麗さ」,「清潔さ」の押し付けは抑圧であると捉えている.もちろん,これは「大学生」のメインストリームに乗り損った人間の僻みであるかもしれないが,物事の主流から外れた場所からしか見えないものは確かに存在する.何より,他人と同じことをしてもつまらない.そこらへんの大学生がグアムや韓国に行くのであれば,我々はシベリア鉄道をウラジオストクからモスクワまで乗り通し,ついでにサンクトペテルブルクまで行くのである.なぜかは知らないが名前の響きだけでサマルカンドを何となく目指すのである.

この科学偏重主義,論理偏重主義を超克する有効な手法こそ,社会科学や人文科学の中にあると私は考えている.もちろん,自然科学の営みにも自信の持っている未明を確認し,それを乗り越え前進する機会はある.しかしながら,それは自己が持っている「価値観」や「思想」を批判するレベルにまでは至らないだろう.しかしながら,社会科学や人文科学における領域には,まさに自己の価値観を解体していくようなものが存在する.「綺麗さ」や「清潔さ」といった一見正しく見えてしまい,受け入れやすい価値観を相対化し,批判するには社会科学や人文科学に触れ,ある程度世間の喧騒から離れた場所にて他人と議論することが最有力の方法だと私の経験から見て思っている.

また,「綺麗さ」や「清潔さ」に未だ拭い去られていないものを言語化し,よりさらに解像度を高く捉えることができるのもこの社会科学や人文科学であると考える.もちろん,論理や言語はそれ自身でしか語りえることしか語り得ない.自身が身体を通じ経験した事象については「私」が目の前の「貴方」ではない以上いくら論理や言語を用いたとしてもその事象について完全に伝えきることはできず,そもそも論理や言語で表した時点でその情報量は抜け落ちるのである.

しかし,その事実に直面し諦観を持つだけでは「綺麗さ」や「清潔さ」を超克できない.「概念や理論で表せられない要素」とはいっても周辺要素などとの連関は必ず存在するし,それを発見することで今まで見えてこなかった対象をより解像度を高く捉えられるのである.また,論理や言語で表しきれないからそれについての表現もあまりしないという姿勢は,対象に対し誠実さに欠ける態度とも言える.なぜ自分がそれについて興味を持ったか,価値があると思ったかを自分に問いかけることで,複数の視点から要素を捉えられる.

もちろん,今の社会科学や人文科学は強大な力を持ちうるかと言われれば,否定せざるを得ない.現実にも,例えば大阪の「釜ヶ崎(あいりん地区)」や京都の「崇仁地区」は行政による「浄化作戦」が進行し,今まで述べたような「言語化できない要素」が日々失われていっている.このふたつのようにわかりやすい例ではなくとも,例えば再開発によって「浄化」され街の雰囲気が良くなったことや,大学のキャンパスにてビラまきや喫煙などを禁止したことによって表面上のゴミが減ったことが「必然的に正しい」とされた例は身近なところに複数存在しているであろう.それらの行動により,掬われずこぼれ落ちた「綺麗ではない要素」を捉え「綺麗さ」「清潔さ」による汚染から抜け出すには,世間の喧騒や主流から離れてしまった人たちと社会科学や人文科学(もちろん,それ以外も)の本を読み,議論していくしかないと私は考えている.

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