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[道順障害の研究 #5]医師に相談する前に自分を知る

自分の世界から出る準備が必要だった

長く文章の世界で生きてきた私の個人的な所感に過ぎないが、ライターや編集者など文章に関わる仕事をしている人には「疑い深い変わり者」が多いように感じる。この件については完全に持論なので、話半分で聞いていただけたら幸いである。

さて、この「話半分で聞く姿勢」「疑い深い気質」がライターや編集者には求められる。報道する立場にある者が表層的な言動や現象を丸ごと信じ、偏った解釈のまま情報として一般化させ公共の電波に載せてしまうと、世界はたちまち混乱に陥ってしまうからだ(現在の報道の在り方や読み手のメディアリテラシーについては、本マガジン「道順障害の研究」の主旨からずれるのでここでは語らない)。

「真実とは何か」を追求すると複雑な話になるが、事実として周知されているものごとが後にくつがえされることは、決して珍しい出来事ではないということをライターは心得ている。情報の発信源・原因・仕組み・歴史・過程・影響などを徹底的に検討する陰湿なプログラムを実装している疑い深いこの職業人は、可能な限りの根拠を調べ挙げ納得した上でなければ記事を発表しない(残念ながら一部のメディアはこの限りではないようだ)。あらゆる角度から考察し、自らの目と肌で確認するまで気が済まない。自己責任であることが心のよりどころとなっている節もあり、口癖は「念のために確認ですが」であることが多い。

理論武装した自己防衛システムはこうして日々強化され、じわりじわりと疑い深い変わり者になっていく。そして困ったことに、自分が直接入手したものではない情報(=世の中のほぼすべて)を疑って生きているがゆえに、他者を信頼して自分を委ねるということを極めて苦手としている。

そう、これはすべて私のことである。とりわけ私のような IT 領域の技術ライターは、「テクノロジー」というフワッとしようのないものを題材として扱っているため、確認作業が厳しく疑い深くなる傾向があるのかもしれない。世の中には、もっと柔軟でしなやかなライター・編集者はたくさんいるので、どうか安心してもらいたい。学生時代は友人にさんざん助けられぬくぬくと生きていたはずの私だが、社会人になって世界の厳しさを知り、フリーライター・編集者として(また時に企業戦士として)自らを叩きあげた結果である。

さて、そんな私は20年以上にわたり「人の顔を見分けられていない、道に迷いまくって日々疲弊する」といった、日常生活をやや困難にする謎の現象に悩されてきた。散々ひとりで悩みまくった末、ようやく「病院に相談する/専門家の力を借りる」という手段に至ったわけだが(参照:「#4  何科を受診すればよいの?という問題」)、冒頭で記したとおり他者に頼るということが端から頭になかったため、病院に相談するまでかなりの時間を要してしまった。

医師に悩みを相談することは、武装解除してライターとして築き上げた独りよがりな世界から出ることを意味していた。装備ナシに自分の知識が全く及ばない世界をどのように歩けばよいのか。どのように考えどのように行動すれば良いのか……。医師に相談しなければ悩みに耐えかねてライター人生が詰んでしまう。しかし私は、医師に相談してどうしたいというのだろうか。原因が明らかになって「そうなんですね」で良いのか。どのような原因であっても事実を受け止める心の準備はできているのか。なんらかの薬をもらって通院し続け苦痛をやり過ごすことが目的なのか。

自ら病院に相談のメールを送っておきながら、手を差し伸べられた途端に自分が何と向き合おうとしているのかが分からなくなっていた。ゆえに私は、自分を悩ませている原因を知りたいという気持ちを抑えつつもいったん立ち止まり、自分と向き合う時間をとることにしたのだった。

落としどころを見つける

自分と向き合うための時間は、正直まあまあの期間を要した。深堀りすると来世まで持ち越しそうだったので、まずは自分なりにスッキリとするだろうと思われる「落としどころ」を用意することにした。これにより自分の中で線引きができたので、ごちゃごちゃとした考えがクリアになって良かったと思う。

①どのようなことが原因であっても、落ち着いて受け止める

②原因が明らかになって「そうですか」で終わるのではなく、脳内や体内でどのようなことが起こっているのかメカニズムを理解したい

③メカニズムを理解したうえで自分の弱点を洗い出し、「迷うとき/顔が分からないとき」の傾向とパターン、カテゴリのようなものを見つけ出したい

④パターンが判明するようであれば予防策を講じ得るのではないか。道に迷ったり人の顔を覚えなければならないといった「困ったシチュエーション」に遭遇する前に、先手が打てるようにしたい(特にめまいが起こらないようにしたい)

⑤先手を打てず困難な状況に直面しても、元に戻る手段や代替手段で無難に乗り越えられるようにしたい(脳内で起こっていることを客観的に感知し、対処できるようになりたい)

いずれにしても、ひと足飛びには前に進めない様子だ。何が知りたいのか、どうしたいのか、納得するポイントはどこなのか。薬をもらうためだけに一生通院し続けるのは嫌だし、それでは何も解決しないのではないか。自分の身体を実験に使ってでも、長年私を混乱させてきた悩みの正体を突き止めてメカニズムを解明したい。できることならその首根っこを摑まえて手なずけたい。そしていずれ自分の一部として受け入れ共存していけたら……。

病院から暖かく手を差し伸べてもらい、自分と向き合い、考えがある程度まとまった。張り詰めていた気持ちから少し解放され、世界が少しだけ明るく、呼吸が楽になったように感じた。気が緩んだせいか、はたまた原稿の締切りに依るものなのか。開放感を味わう間もなく鋭い痛みが胃のあたりを突き抜けた。いつものヤツだろうと市販薬でやり過ごそうとしたが収まる気配がなく冷や汗がにじみ始めたので、私はやむなくかかりつけの病院へ行くことにした。

他者を信じるためのレッスン

私が向かった先は消化器系を専門とする医師が構えたクリニックで、この街に越して以来なにかと不調の際はお世話になっている。こぢんまりとしたクリニックではあるものの設備が整っており、柔和で落ち着いたお人柄の医師がしっかりと話を聴いて診察してくれる。この街の守り神的な存在だ(と私は勝手に思っている)。

以前「忙しいと思うけど、もう少し早めに受診しても良いかもしれませんね」とアドバイスを受けたことがあったので、今回はアドバイスに従って早めに受診することにした。毎日が締切り前日、睡眠時間は4時間程度、人生の10割を仕事に充てる過労ライターを改心させる医師である。

それはさておき、結果は胃炎だった(急性胃炎とかだったかも。具体的なことは忘れました)。何度も胃痛を繰り返すためどうしたものかとボヤく私に医師は「ストレスを溜めないように、忙しくてもリラックスする時間を少しとるようにすると良いですね」とアドバイスしてくれた。そうか。カルテには私の過激な生きざまが記録されているのか。確かに前に受診した際も胃痛で胃カメラをした気がする。なんということだ。ストレスが過ぎる。

いま私が抱えているストレス。

……あれだ。あれしかない。

私は医師に、人の顔が見分けられていないかもしれないこと/それによって仕事や生活に支障が出ていること/それが現在のストレスの大きな原因かもしれないこと/自分が何に直面し悩んでいるのかということ等を率直に話してみることにした。そして、「もし、こういった悩みについて診てくださる先生をご存じでしたら、紹介していただけたり……しますでしょうか……」と消え入るような声で質問してみた。

専門外の相談であることは重々承知しており、解決に繋がる返事がもらえることは全く想定していなかった。自分の口からこの言葉が出てきたこと自体が不思議でならない。しかし、数年にわたり何度も診てもらっている医師である。胃痛の原因となっているかもしれない現象について、自分以外の他者に面と向かって相談する相手としてこれほどベストな人はいない。「他者を信頼せよ」という見えざる手が背中を押したように感じた(ちなみに私は無宗教である)。

話をひととおり聴いてから医師はいくつか私に質問し、私もわかる範囲で答えた。医師は「なるほど」と言ってしばらく考え、「私は専門ではないのですぐに思い当たらないのだけれど、知り合いの医師が良い先生を知っているかもしれない。何人かあたってみようと思います。少し時間をもらえますか?」と続けた。

いったい何が起こったのか。自分のコントロールが及ばないところで、確実に前に進み始めている。それは、自分でできることの何万倍もパワフルで健全であるように感じた。自分の非力さ、小さな世界、独善的なマイルール。それらをはっきりと自覚したと同時に、「徒労」がスルスルと手から離れていくような感覚があった。自分でできることは精一杯、可能な限りやった。かなり遠回りをしたとおもう。ムダなことをたくさん考え、ひとりでくるくると回ってきたけど、結局何もできなかった。

私には、他者を信頼すること/専門家に身をゆだねることを身をもって理解する必要があったのだろう。かかりつけのクリニックの医師による「他者を信頼するレッスン」は、私の人生においてかけがえのないことを教えてくれた。そして、このことが「自分が想像することさえできない世界」のドアを開けてくれる医師との出会いへと繋がるとは、この時点では気付くことさえできなかった。

TEXT_みむら


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