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フジコーラと元高校球児の話

テレビの向こうはワーワーと騒がしい。
吹奏楽のデカいラッパの音とメガホン越しに叫ぶ声。アナウンサーが興奮気味に何か喋っている。
久々に実家に帰ってきても何の予定もなく暇だからって、普段見もしないテレビなんかつけるんじゃなかった。

ごくり。気の抜けた炭酸が喉を通り過ぎた。
チラリと視線を落とすと瓶のラベルに描かれた、野球帽を被りバットを担いだ少年がこちらを見ている。
あの時の俺の嘘を見破るみたいに、薄ら笑いを浮かべていやがる。
ああ。嫌なことを思い出した。

茶色い液体の入ったその瓶をくるりと回して裏返す。
その先にある画面の中では白と赤のユニフォーム姿の少年がバッターボックスに立っている。
あの日と同じ。四回裏、2アウト。ピッチャーが振りかぶる。
グラスの中のほとんど溶けた氷がカランと音を立てる。同時に、カキンッとボールがバットの芯に当たった音が響く。

思わず噛み締めた口の中は、どこか苦い。


「さ、こぉーい!」

家に近いという理由で選んだ高校では、昔からなんとなくで続けていた野球部に入った。
物理のおじいちゃん先生が顧問かつ監督で、ピッチャーとキャッチャー以外のポジションは適当に決めるようなお遊びの部活だった。
だからもちろん、地方大会でも一回戦負けが当たり前の弱小チーム。

「次、フライ行くぞー」
「うぇーい」

それでも部活のみんなとは仲良かったし、揉めたこともあんまり無かった。
漫画でよく見る美人マネージャーなんていなかったけど、一年が代わりに雑用やってくれて、まあそれもよくある通過儀礼だ。
練習はだいたい日が暮れるまで。雨が降ったら基本は休み。日曜はたまに練習試合が入るけどほとんどはオフ。

「集合ー!」
「おつかれっしたー!」

甲子園出場なんて夢のまた夢。というか夢に見ることすら烏滸がましい。
テレビの画面越しに、選ばれた人間だけが行けるその舞台の光景を他人事として眺めているのが俺たちだ。


そうして迎えた高校最後の夏、地区大会の一回戦。四回裏、2アウト。走者は二塁三塁。
肩が強いわけでも強打者ってわけでもない俺は、先生の独断で決められたとおりレフトのポジションに立っていた。
すでに0-11と負け確定の消化試合。
ジリジリと容赦なく照りつける太陽が暑い。早くクーラーの効いた部屋で寝っ転がりたい。アイスを食べるならクリームより氷のやつ。
こういう時、外野で良かったと心底思う。内野手なら塁にいる走者のことを常に意識しなくちゃいけないし、バッテリーの二人は言わずもがな。
あー、腹減った。

その時、ピッチャーが投げたボールはカキンッといい音を立てて大きく打ち上げられた。

「レフト!」
「えっ」

白球は俺の方へ飛んでくる。
伸びている。でも取れないことはない。落下点にさえ入ればたぶん取れる。
それにしても今日は本当に暑い。しかもマジで腹減ってきた。太陽がクソ眩しい。あー、しんどい。もう早く終われ。
どうせ負けなんだし。

一瞬、世界がスローモーションになる。
白に赤の縫い目のボールは俺のグローブの先に当たって、静かに地面へ落ちた。

「回れ回れーっ!」

知らないおっさんの声。わあっと盛り上がる場内。白と赤のユニフォームを着たヤツらが何かを叫んでいる。

「……あ」

目の前をコロコロと転がっていたボールを拾って投げた。
三塁に届いた頃には打った選手がもうホームに向かっていて、結局相手チームに3点が追加された。

夏の地区大会一回戦。五回、0-14でコールド負け。
俺の高校最後の夏は願いどおりすぐに終わった。

「さっきのあれ、どうしたんだよ」

先生の車に荷物を積み込んでいる最中、ピッチャーに呼び止められた。

「あれって?」
「四回の裏。レフトにフライ上がっただろ」

その目元は少し赤い。
もしかして泣いたのか? こんなお遊びみたいな、万年一回戦負けの部活で?

「……太陽が目に入ってさ。取れると思ったんだけどな」

思わず口が引き攣った。

「そっか。太陽くらい、俺たちの味方してくれても良かったのにな」

ぽん、と俺の右肩に置かれた手の先にはマメの潰れた跡があった。

「三年間、ありがとな」

そいつのその言葉を皮切りに、誰かがぐすぐすと鼻を鳴らした。うう、と抑えきれないように呻く声もした。
周りを見回すと俺以外みんな、馬鹿みたいに泣いていた。

急に顔が熱くなった。
グラウンドに立ち、太陽に灼かれていた時よりももっと。

負けたのは俺のせいじゃない。あの時点ですでに点差は大きく開いていた。だからあのボールを取れていたとしてもコールドゲームは免れなかったはずだ。結局すぐに終わってしまったに違いない。本当に太陽が眩しかったんだ。暑くて意識も朦朧としていた。嘘じゃない。
それなのに。

マメだらけの手が置かれた右肩がやけに重く感じた。


『ボールは高く伸びているーっ!』

はっとして画面に意識を向けると、白球はレフト方向へ飛んでいった。あの時と同じように高く打ち上げられている。
画面の下、よく知っている色のユニフォームを着た少年が大きく手を上げた。そいつは眩しそうに顔を歪めた。

あの日、青い空から落ちてきた白球はずっと瞼の裏に残っている。
俺はあのボールを取れなかったのではなく、取らなかったのだ。
万年一回戦負けの弱小チームだから。逆転できる点差じゃないから。本気でやってるわけじゃないから。負けて当然だと思った。
今になって分かる。馬鹿なのはみんなじゃなくて俺だった。
だから今そこに立っているあの日の俺よ。

「逃げんな」

世界がスローモーションになる。
緩やかに下降した白球はそのまま、グローブの中に落ちた。

『しっかりと捉えました、3アウト!』

ボールは俺ではない誰かのグローブに収まった。それなのに。
俺の左手にはたしかに、あの日掴めなかった感触があった。


空になったグラスに炭酸水を注ぐ。シュワッと軽やかな音を立ててパチパチと泡が踊る。そして背を向けていた茶色の瓶を何回か上下に振ってグラスに垂らした。
それは底に落ちる前に溶けて、透明だった炭酸水に色をつけていく。まるであの日の俺たちの日焼けした肌みたいだ。
ゴクリと喉を鳴らして飲めば、爽やかでいてどこか懐かしい甘さがした。

ラベルの少年は満足げに笑っていた。



小説を書くのが趣味なので、フジコーラと夏のお話をひとつ。
この話はフィクションです。と言いつつ、過去の自分のエピソードが元ネタだったり。

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