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家永三郎は邪馬台国九州説から畿内説に転向したと思う。

 余り遺跡ねつ造事件のことばかり書いても困るので今回はちょっとまじめに考古学の勉強というか、独学の学習ということで家永三郎と邪馬台国に関して自分なりの見解を書きたい。

 家永三郎なのだが、一貫して教科書裁判で左翼の大御所ではなく、実は戦前は日本の右翼の旗振りを熱心にやっていたという。

 家永三郎に関しては戦前は軍人の息子だったので、彼自身、皇国史観の持ち主だったという。彼自身、天皇制を擁護し、教育勅語に肯定的な発言を繰り返していたという。

 もちろん皇国史観の持ち主であれば邪馬台国論争では神武天皇の実在を信じていただろうし、邪馬台国九州説を支持していただけではなく、神武東遷の信奉者でもあったのではないか?

 家永三郎も初めは日本古代史の研究者で上代(奈良時代)の仏教研究者でもあった。『古事記』や『日本書紀』の記述を皇国史観の延長で正しいと考えていた右翼保守勢力の頭目であったという。

 家永三郎自身も終戦直後も左傾化した学者に冷淡で、戦前、皇国史観を信奉していた学者が日本共産党万歳、と叫ぶような転向には批判的というか、軽蔑的だったという。

 家永三郎は戦後の逆コースの流れの中で津田左右𠮷を最評価することで皇国史観の延長だった邪馬台国九州説を否定していった

 家永三郎に関して自分も勉強中であるのだが、家永三郎が左傾化した理由は戦後の逆コースの影響が大きいという。

 加えて家永三郎自身が日本古代史の著名学者の津田左右吉を再評価するようになり、戦前、津田左右吉が国家神道を批判し、『古事記』や『日本書紀』や日本建国神話を原理主義的に正しいとする皇国史観に対しても津田左右吉が一貫して批判していることに感銘するようになったという。

 家永三郎も戦後になるとそれまで批判的だった津田左右吉の影響を受けるようになり、皇国史観に対して家永三郎も批判的になっていったといえる。

 日本の考古学で邪馬台国九州説は神武天皇実在説と神武天皇東遷説を正しいと考えて皇国史観の延長で日本国の成立を正しいと認識する。

 その一方で邪馬台国畿内説は皇国史観で繰り返される神武天皇の存在を否定し、日本神話や『古事記』や『日本書紀』の記述は額面通り正しいと判断するのは間違いだと判断する。

 邪馬台国畿内説では神武天皇実在説に関して否定論を唱え、神武天皇の実在は明治政府が大日本帝国を樹立した時代に文部省が『修身』という学科で架空の人物である神武天皇を称賛したということで批判的な態度を取る。

 家永三郎は考古学の論争でいえば戦前は皇国史観の持ち主で邪馬台国九州説を唱えていたが、戦後は徐々に邪馬台国九州説に批判的になり、最終的には完全に邪馬台国畿内説の立場に立ったと思う。

 家永三郎も戦前は皇国史観の延長で戦前の教育の『修身』で登場する神武天皇を肯定的にとらえて邪馬台国九州説を支持していたが、戦後になると『修身』を否定し、邪馬台国畿内説に転向したのではないだろうか?

 私個人は家永三郎は教科書裁判で検定制度に反対する著名学者で名前が知られた際には完全に邪馬台国九州説を捨て、邪馬台国畿内説をほぼ正しいと考えを転向していたのではないか?と思う。

 家永三郎が邪馬台国九州説から邪馬台国畿内説に立場を転向したから反日教育に転向したとはいえない

 保守右翼的な言論人の批判で家永三郎が戦前は皇国史観の持ち主で『修身』を正しい日本人のための教育倫理と評価し、神武天皇の実在を肯定して邪馬台国九州説の支持者だった家永三郎が、戦後になると戦前の皇国史観に批判的になり、邪馬台国畿内説に立脚した神武天皇虚構説に転向し、あまつさえ教科書裁判で日本を貶める言説を繰り返した、というのがある。

 実は家永三郎自身が戦後のGHQのマッカーサーが中心となって考えていたWGIP(ウォー・ギルド・インフォーメーション・プログラム)の影響を受けて、それこそGHQの洗脳計画に引っかかっていまい、教科書裁判も実はWGIPの影響もあるという説もネットでは存在する。

 江藤淳やケント・ギルバードなどがこの種の言説をいっていたというが、私は余りこの種の言説は評価できない。

 俗にいうWGIPで戦前の日本を否定するためにGHQが考古学会や日本古代史の研究者に戦前の神国日本を否定するために邪馬台国畿内説を積極的に支持するように圧力をかけたことは決してないだろうし、確かにGHQも戦前の軍国主義に批判的な立場で国家神道を批判はしたが、決して邪馬台国九州説を否定して、考古学者や古代史研究者に邪馬台国畿内説を強制したわけでもない。

 家永三郎自身も当時の状況を踏まえて人間天皇宣言をした昭和天皇の発言の影響を受けて邪馬台国九州説から邪馬台国畿内説に立場が変化して、最終的に教科書裁判で神武天皇を否定するようになると、邪馬台国畿内説に転向しただけであろう。

 家永三郎は邪馬台国畿内説の有力なオピニオンリーダーなり、考古学会にも影響を与えた

 家永三郎が皇国史観に批判的になり、邪馬台国九州説を捨てて神武天皇否定論者になり、教科書裁判でも神武天皇や日本神話を事実と教えるということは右翼反動であり、戦前の超国家主義への回帰に通じるということで猛批判したのは有名な話である。

 家永三郎も神武天皇の存在を虚構であると批判し、邪馬台国畿内説を支持するようになったのだが、この辺の家永三郎の態度は日本古代史の巨匠教授であった津田左右吉の影響であることは確かだ。

 戦後になると邪馬台国論争で九州説が小さくなり、学界では畿内説が強くなったのは津田左右吉が神武天皇を否定したのも大きいが、教科書裁判のパイオニアであった家永三郎の影響もまた、大きかったのではないか?

 私個人も大して考古学の知識はないが、戦後の邪馬台国論争で九州説が小さくなり、畿内説が大きくなったのは津田左右吉の影響だけでなく、家永三郎の影響もまた大きかったのではないか?と私は思う。

 家永三郎は戦後になって終始、神武天皇や日本建国神話に否定的になり、大日本帝国時代に文部省で歴史教育で実施していた『修身』に関しても激しく、右翼反動のナショナリズムの背後勢力ということで猛批判を繰返したが、家永三郎の日本建国神話批判や神武天皇批判もまた、大いに邪馬台国論争で畿内説の支持者を増やした原因でもあったと思う。

 私自身、家永三郎の言説をすべて正しいと考えているわけでもないので家永三郎を左翼の英雄ということで崇拝しているわけでは決してないが、家永三郎の転向に関して冷静に考えてみると戦後で邪馬台国畿内説が正しいということで学会で支持者が増えた理由の一つになっているのではないか?と考えている。

 津田左右吉の影響を受けた家永三郎は戦前の彼が信じていた邪馬台国九州説を敗戦と同時に捨てて、家永三郎は邪馬台国畿内説を唱え、教科書裁判のオピニオンリーダーとなって戦後の教育界で大きな影響力を持ったと考えていいだろう。


 

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