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麻雀開発者の日記・その①「麻雀との出逢い」

こんにちは、「麻雀一番街」開発チームリーダーのFrank(フランク)です。

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お恥ずかしい話ですが、今は日記を書くどころではなく、ゲームの最適化やデバッグなどをくるくるやっているべき時期です。しかし『麻雀一番街』配信開始から一ヶ月が経ち、これまでの人生について頭に思い浮かんだ様々なことを書かずにはいられず、ここに日記を公開させていただきます。

この一ヶ月を経て一番分かってきたのは、常に全てのことに対し畏敬の念を抱くべきだということです。すべてのプレーヤーと製品、そして麻雀というゲームに敬意を払わなければならないことです。私たちは「麻雀一番街」というアプリを万全を期して公開したと思いきや、様々な問題や不足が露呈してしまい、本当にお恥ずかしい限りです。 これは私たちの開発チームの文化的背景にも関わると思います。日本の文化では万全の準備をすることが基本ですが、私たちは「問題が起こってもどうにか対応できる」と軽率に考えて、畏敬の念を忘れました。今後は皆様により良いサービスやゲーム体験を提供できるように、もっと自らに厳しくしたいと思っています。

只今、『麻雀一番街』で沢山のユーザーを確保できない私たちのことを見下す人も少なくはないでしょう。それでも、必ず『麻雀一番街』を成功させる!と私たちは変わらず考えており、全身全霊を注いでおります。現在、私たちはゲームの最適化に努めると同時に、友人戦や三人麻雀など、多様な遊び方を開発しようと考えています。ユーザーの皆様からはいつも貴重なご意見やご期待をいただいており、本当に感謝しております。私たちは真摯に受け止め、今後の改善の際反映できるよう努力します。また、より多くのプロ雀士の方々に協力いただき、より豊かなゲーム体験やサービスを提供できるよう努めてまいります。

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麻雀の魅力といえば人によってそれぞれ違いますが、私にとって、麻雀は心の拠り所となるものです。

幼い頃、私の父は常に海外で仕事をしており、年末年始にだけ家へ帰ってきていました。そしてようやく久しぶりに会っても、威厳のある父へは気安く甘えられません。しかし、麻雀は唯一、私たちの距離を縮めてくれるものでした。毎日の夕食後には、私の祖父、父、母と叔父が集まって、一緒に麻雀をするのです。その時、父はいつもと違い、私に嬉しそうに麻雀のルールを教えてくれました。そして私はリーチ、タンヤオ、チンイツなどの役と共に、父の厳しい顔の裏に愛情があることを知りました。6歳の頃の話です。
連休が終わった後、父はまた海外の仕事に戻らなければなりませんでした

空港で別れるとき、父は私を抱きしめ「しっかり勉強して早く大きくなって、そして家族を大切にしなさい」「今度帰ってきたら、また麻雀を教えてあげる」と言ってくれました。父がいない日々、私は一人で麻雀を学びました。次に父と会うときに、上手な麻雀を披露することだけが楽しみでした。

私は大きくなると、父と同じように、仕事でいろいろな国に飛び回りました。 新しい国に行くたび、時間を見つけては麻雀ができる場所を探していました。

麻雀卓に着く時は、私は生活上の悩みや仕事上のストレスを完全に忘れ、落ち着くことができます。Facebookやmeet upのおかげで、私は世界中のリーチ麻雀プレーヤーと出会うことができました。また、少なくとも30カ国でさまざまな人とリーチ麻雀をすることができ、特別な思い出もたくさん作りました。

ブラジルでは日本人が多いので、ネットでリーチ麻雀をやる人が多くいますし、ラテンアメリカ人は親切で人が好きですので、一緒に麻雀をする機会が沢山ありました。

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Balneario Camboriu(バウネアーリオ・コンボリウー)でのことです。仕事がうまくいかず、クライアントが諸事情で約束を破ってしまい、何もできない一日が生まれました。そこでインターネットで「麻雀ができる場所」を検索すると、100km以上あるFlorianopolis(ロリアノポリス)にしかありませんでした。しかし私は、迷わず思い切って行きました。

出発の時、海岸の夕陽が美しくて、潮風も爽やかでした。 窓の外は並木が続き、並木の後ろは夕暮れが残って、この現実のような夢のような光景を、何度も見たような気がしました。西アフリカのジャカランダ並木道でも、東アフリカの雨後のセレンゲティでも、東南アジアの歩行者天国でも、冬の北米で車窓から見た夕焼けも、同じようなくすんだ黄色でした。

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Florianopolisは島であり、行楽地でもあります。私が到着した時には夜になっていました。海辺には何人もジョギングしている人がいます。店舗はほとんど閉まりましたが、ウィンドウ・ディスプレイの電気はまだついています。道端で足を止めて、ガラスの中のモデルを見ている歩行者もいます。ある少女はガラスに手を当てて、マネキンの花柄のドレスに見惚れていました。少女の黒髪は海風に吹かれ、美しく空にそよいでいました。

目的地はすぐに見つかりました。そこは麻雀卓が2つある地元の麻雀倶楽部です。 着いた時にはちょうど1席空いており、早速座って、夜遅くまで麻雀を楽しみました。 麻雀卓に着くと、麻雀用語さえ使えれば言語の壁なく対局ができます。たまに通じないことがあっても、皆懸命にコミュニケーションを取り合うため、とても気楽でした。

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夜12時過ぎまで遊んでお腹が減った私は、すぐ近くで深夜営業の軽食店を見つけました。その屋台は、マイクロバスを改造したホットドッグ専門店です。オーナーさんは30代くらい、赤茶色の髭を生やし、青灰色のジャンパーに黄茶色の乗馬ブーツを履き、屋台の前の椅子に目を閉じて座っています。私は思い立って、オーナーさんと話をしました。

オーナーのルーカスさんはサンパウロ出身のサッカープレイヤーでした。昔、国内の強豪チームでプレーしていたそうです。Florianopolisには、海外の選手と契約するスカウトがいると友人から聞いて、島に移り住んだのです。

「しかし、どんなに自信とやる気があっても、厳しい現実へ直面しなければなりません。」

ルーカスさんは島に来てから何度も失敗し、その度に当初の覚悟が折れかけました。帰国しようと考えたりしながらも、結局何もできないまま、友人の助けを借りて屋台を出し、かろうじて生きている状態とのことでした。

「私はまだ諦めていない。ここで稼いで、必ず成功してみせるよ。」

こんな状況の中でも、そう笑いながら話す彼の目は輝いていて、その輝きがすぐに土埃の中に消えていくとしても、その熱さはずっと消えないように感じられました。


Balneario Camboriuに戻る途中、同僚のFabio(ファビオ)にルーカスのことを話しました。Fabioは私の同僚になる前に、ブラジル北部の小さな町で数年間英語の教師をしていましたが、今は私と一緒に北から南へ、ブラジルのほぼ半分を旅して、以前よりも大変な生活を送っていると言いました。しかしその代わりに、以前よりも多くのお金を稼いで、大きい家へ引っ越しましたし、10年以上使った車も新しいものへ買い換えました。 疲れても、自分の努力により、家族がよりよい生活を送れるになったことを喜ぶことだと、Fabioは言いました。

運転中、Fabioは「家から何千キロも離れるところに行く動機は何だ?」と私に聞きました。

「あなたと同じだよ。」

この世の中の温かい力は、いつも私たちを支えてくれます。

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麻雀に関する思い出で、私にとって残念なこともあります。祖母の話です。

祖母は、その一生涯を家族のために捧げた人でした。祖父と子供の面倒を見て、休みのたびに孫の世話もしなければならなかったのです。 皆はこれが当たり前だと思って、彼女への配慮をすることはありませんでした。

私が一人で麻雀を学んでいたあの夏の午後、祖母は私のところへ興味津々でやってきて、一緒に学びたいと言ってくれました。しかし、麻雀は初心者に対して、特に高齢者に対しては難しいゲームです。私は父から早く認められたいと思うあまり、祖母に教えることを諦めました。祖母が私から背を向けるとき、私は彼女の背中に寂しさを感じたはずなのに。

現在は祖母が亡くなってから久しく、祖母に関する記憶はほとんど私の頭の中から消えましたが、このことだけは忘れられません。機会があれば、父が私に教えてくれたように、私も祖母に教えたいです。


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