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【登山記録】石川県低山シリーズ8:能美市の里山
前回の七尾城山に続き、低山シリーズです。
低山ハイキング、一見地味だけど嫌いじゃない。季節を間違えなければ快適に山登りを楽しめる。
さて、今回は能美市の低山を2ヶ所登ってきました。
一つは遣水観音山(標高402m)、一つは虚空蔵山(標高138m)です。
今回、登山口の近くまで行く公共交通機関が残念ながら皆無だったため、自分の部屋から登山口までクロスバイクで走り、そこから登るパターンを選択しました。
そんなわけで、部屋から自転車漕いで手取川を渡り能美市へ。
自転車には厳しいアップダウンを3回ほどこなすと、風景は里山へと姿を変える。
トンネルを抜けて仏大寺という地区に入ると、遣水観音山の登山口はすぐそこ。
小さな公民館を見つけ、駐車場に自転車を停めさせてもらう。近くにいた地元の人と思しきご婦人に怪しげな視線を向けられたが(苦笑)、そんなことはお構いなしです。
アスファルトを歩き始めると、程なく登山口の標識にぶつかります。
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遣水観音山には、どうやら登山道が2つあるらしい。1つは北から南にある頂上へ回り込むルートで、もう1つは採水地がある登山口から頂上を詰めるルート。
採水地は名水百選にも選ばれているらしく、この日も水を汲みに来ている車が数台止まっていました。おそらく日常の光景なんでしょう。ちなみにこの水は煮沸推奨だそう。
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登山口はすぐ脇にあり、あいさつ代わりともいえる急な階段が出迎えてくれる。
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道はよく歩かれていて、前日までの雨で滑りやすくなっていた以外は危険な個所はほぼなかったと思います。
ちなみにこの遣水観音山、古くは霊峰白山信仰のための修験の山として、雲水たちが心身を鍛えたそうで、女人禁制が敷かれていた歴史があります。
登山道は五合目あたりにある観音堂までほぼ登りっぱなしで、急登もところどころ見られます。
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登山開始から約30分、遣水観音山頂上。標高402m。
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展望台からは、加賀平野と日本海まで一望できました。
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一息ついてから登ってきた道を下山。
採水地を通り過ぎて公民館に戻り、自転車を回収して次の目的地、虚空蔵山へ。
再びトンネルをくぐり、和気という地区に入ります。
虚空蔵山の登山口は、和気小学校の隣の公園奥で、標識に導かれるままに「大手門の道」を右手に進んでいきます。
小学校のグラウンドでは少年たちがサッカーをしていました。
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虚空蔵山は、今でこそ小学校の裏山だが、かつては城が築かれていました。
室町時代、全国各地に守護(戦国大名の走り)と呼ばれる領主が配置され、加賀地方は富樫家が代々治めていた。
ある時、富樫家の当主をめぐって後継者争いが勃発した。当事者は兄・富樫政親と弟の幸千代。幸千代はこの虚空蔵山を拠点とし、兄と対峙した。
政親は浄土真宗の布教のため北陸を訪問していた蓮如という僧侶と知り合い、その門徒である農民たちの協力を依頼した。この農民たちは自ら武装し、自身を脅かす勢力と戦った。
農民たちの協力を得た富樫政親は虚空蔵山に籠城する幸千代を攻撃し、落城させる。幸千代は国を追われ、政親が富樫家の当主に収まった。
「加賀の一向一揆」と呼ばれる勢力の誕生である。
この後、虚空蔵山は一向一揆の拠点と定められた。
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大手門の道を10分ほど登ると、二の丸跡の広場に出る。
二の丸の奥を数分歩くと、さっきまでいた遣水観音山が見えた。
虚空蔵山もよく歩かれているが、遺構がわかりにくいので、当時の様子をうかがい知ることはやや難しい。
大手門の道に合流して少し歩くと、本丸跡の広場に出た。
富樫家の当主に収まった富樫政親は、一向一揆と対立するようになる。それは、農民たちが運営に干渉するようになってきたからとされている。
富樫政親は、農民たちを弾圧し始める。やがて業を煮やした農民たちは再び武装し、富樫政親を攻撃し自害に追いやった。
このあと、加賀地方は特定の領主が立てられず、農民たちが自身で地域の運営を行っていくことになる(百姓の持ちたる国)。
約100年後の16世紀後半、越前(福井)を支配下に置いた織田信長と、越後の龍こと上杉謙信がこの地方に進出してくるようになると、一揆は大名とも戦った。
特に織田信長は京都へ上洛するにあたり、大阪の石山本願寺(浄土真宗の一派の本拠)とも激しく戦っていて、本願寺の北陸支部ともいえる加賀の一向一揆をとにかく嫌っていた。京を目指す尾張のうつけにとって、背後をとられるおそれのある加賀の百姓たちは邪魔でしかなかったことは想像に難くない。
抵抗を続けていた一向一揆ではあったが、勢力を増す織田の軍勢に押され始める。
1580年、織田信長と石山本願寺が講和を結んだ。10年に及ぶ石山合戦の決着であり、事実上、織田信長の勝利宣言だった。
加賀一向一揆はその後も抵抗を続けていたが、リーダーだった鈴木出羽守が松任城で織田方に騙し討ちにあうなど徐々に陰りが見え、拠点だった虚空蔵山と二曲城(ふとげじょう)が陥落した。1582年、佐久間盛政が率いる織田軍に最後の拠点鳥越城を攻略され、命運は尽きた。
現在の石川県白山麓に残っていた一向一揆の残党と関係者併せて数百名は、無残にも老若男女問わず手取川の河原で処刑された。この結果、白山麓地域にはほとんど人がいなくなったという。見せしめのような意味合いもあっただろうが、一向一揆に対する織田信長の怒りの激しさがうかがえる。
この虚空蔵山は、100年の間に二度陥落した珍しい城でもあった。
加賀地方はその後、織田信長の家臣で豊臣秀吉の盟友である前田利家が獲得した。加賀百万石と謳われ、江戸幕府が恐れた豊潤な加賀藩の礎である。
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ぐるっと周回するようにして下山。
ふもとには和気の池という池があり、釣り人がたくさんいました。
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SATOYAMAだけ日本語
すぐそばの里山公園まで下りて自転車をピックアップし、ペダルを漕いで帰りました。
例の3つのアップダウンが疲れた足に堪えたのは言うまでもありません。
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