アスペクト盲と側頭葉

こんにちは。みやてつです。

今日は以前読んだ池谷裕二『進化しすぎた脳』第1章11節にある脳のWHAT回路とHOW回路の話と、野矢茂樹『哲学・航海日誌』の17節にあるアスペクト盲の話の関係について考えたことを書きたいと思います。

・アスペクト盲とは
まずは、アスペクトとは何かというお話からしていきましょう。アスペクトは「~として見る」という作用表す単語です。「アスペクト 絵」とでも検索してもらえれば、ウサギの頭とも、アヒルの頭とも見てとれる「例の絵」が出てくるはずですが、このように物理的には同じ絵を別のモノとして見ることができるという話と関連しているわけですね。

そこからアスペクト盲とは「何かを何かとして見ることが出来ない人」ということになります。

・ハンソンの解釈
では、アスペクト盲の人はどうなってしまうのでしょうか。ハンソン的な解釈では「~として見る」が成立しないことは即ち知覚一般の喪失であり、一切が無意味な混沌に帰してしまうとされます。これは知覚は知識や理論、解釈に先立った無垢なものではありえず、まさにそれらを背負った形でのみ成立するという「知識の理論負荷性」という議論に立脚するものです。

・ウィトゲンシュタイン
一方、ウィトゲンシュタインはアスペクト盲はたいしたものを失っているわけではないと結論します。彼は「知覚表現」(~を見る、~が見える)と「アスペクト把握表現」(~として見る、~に見える)を区別し、アスペクト盲は知覚表現は可能であると考えます。野矢の例をそのまま使うと、タクアンを卵焼きに「見立てる」ことは出来ないが、タクアンを取ってと頼まれればちゃんと取ることができるという訳です。

・脳のHOW回路とWHAT回路
実はこのアスペクト盲に似た症状が実際の人間に生じることがあるようで、池谷本を参考にしてその話をします。まず脳にはその「モノ」は何なのかに反応するWHAT回路と、その「モノ」がどんな状態なのかに反応するHOW回路が存在します。HOW回路は例えば、あるモノが赤色だった時に反応する神経や、あるモノが左方向に動いたときに反応する神経などを指します。これらの神経は主に頭頂葉に存在し、色に反応する部分が損傷すると当然世界は白黒になってしまうわけです。

・WHAT回路の損傷
では、側頭葉に位置するWHAT回路が損傷した場合はどうなるのでしょうか。健常な人間には理解しがたいものがありますが、これはちゃんと見えているにも関わらず、その「もの」が何であるかがわからなくなるようです。例えば、円筒状で持ち手がついているものであることはわかってもそれがコップであることがわからないと言った状態でしょうか。

・側頭葉損傷とアスペクト盲
この側頭葉損傷の人はまさに何かを何かとして見ることができないアスペクト盲に近いのではないでしょうか。ではこの人はハンソンが言うように一切の無意味な混沌に陥ってしまうのでしょうか。どうもそうではないようです。というのは、この人は側頭葉が損傷しても触覚は正常なので手で触れば「これはコップですね」と理解できるのです。また、そこにモノがあることは理解できるので、コップを投げつけられたら適切に避けることは出来るはずです。

では、ウィトゲンシュタイン的な解釈が正しいかというとそうでもなさそうです。アスペクト盲はタクアンを卵焼きに見立てることはできないはずですが、タクアンを取ってと言われれば取ることができるはずでした。しかし、側頭葉を損傷した人はタクアンを取ってと言われても皿にのっているものがタクアンであることを認識できません。この黄色くて丸いものがタクアンですと言われて初めて理解できるか、或いは直接手で触るしかないでしょう。

・知覚とアスペクトという区分
ここから何が言えるでしょうか。ウィトゲンシュタインは知覚表現とアスペクト把握表現を区別しますが、知覚表現の中にも区分を設けることが可能なのではないかと私は考えました。タクアンを卵焼きには見立てられないが、タクアンだとは理解できるというのが知覚表現の段階でしたが、側頭葉損傷の場合、黄色くて丸いものを見られるがタクアンだとは理解できない。知覚表現の中にも純粋な知覚と意味理解ができる知覚があるのではないかというのがひとまずの結論です。

話を少し飛躍させると知覚表現/アスペクト把握表現の区別ではなく、対象の純粋な知覚/アスペクト的な把握の二つだけが存在すると整理することもできるのではないでしょうか。例えば、黄色くて丸い大根は日本社会においてはタクアンですが、ケニア人がみても何かはわからないかもしれません(当然大根であるということは認識できそうなので側頭葉損傷の人と同じ反応になるかは分かりませんが)。そこで新たにこの大根をタクアン「として見なさい」と教えれば、それはケニア人にとってもタクアンになるはずです。つまり、タクアンをタクアンとして見るという行為自体もタクアンを卵焼きとして見る行為と変わらないアスペクト的な理解なのではないか、というのが私の飛躍した整理になります。

色々と述べてきましたが、あんまり綿密に検討してるわけではないし、『進化しすぎた脳』の方は2007年の本なのでそもそも科学的知見も修正されているかもしれないし、野矢本も久しぶりに一部分を読み直しただけで書いているのでかなり怪しい議論をしている可能性があります。そのことに留意しつつ、何かしら意見があればリプライでもつけてもらえると嬉しいです。

それでは。

#言語哲学 #生物学 #野矢茂樹 #ウィトゲンシュタイン

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?