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イクトゥス・ミニストリーの具体的活動の紹介(1)「みんなのミサ」について

「イクトゥス・ミニストリーについて」では立ち上げの背景や根拠となるカトリック教会のシノドスや聖人の霊性など簡単に紹介しました。この記事では、イクトゥス・ミニストリーの具体的ミニストリー(奉仕・務め)を順次ご紹介したいと思います。今回は「みんなのミサ」について。少し詳しく紹介させてください。ぜひ、興味を持っていただけたらと存じます。

「みんなのミサ」プロジェクト
ミサはカトリック教会の最高の祈りです。
教皇フランシスコは一般謁見演説(2017年11月15日)から「ミサに関する連続講話」をされています。その中で教皇は次のように教えます(抜粋)。

「ミサの素晴らしさを表すために、わたしは非常に分かりやすい側面について話すことから始めたいと思います。それは、ミサは祈りであり、むしろ至高な祈り、もっとも崇高で卓越した祈りであるということです。ミサはまた、もっとも「具体的な」祈りでもあります。ミサはまさに、みことば、そしてイエスのからだと血を通して、愛のうちに神と出会うことです。ミサは神との出会いなのです」。

「しかし、わたしたちはまず、ある問いに答えなければなりません。祈りとはいったい何でしょうか。祈りとは、何よりもまず対話であり、神との人格的な出会いです。人間は神と人格的な関係を結ぶために造られました。その関係は創造主との出会いによってのみ完全に成就します。いのちの道は主との決定的な出会いへと向かっています」。

「天の国に入るためには、驚きに身を任せなければなりません。ここで皆さんにお尋ねします。祈りにおける主との結びつきの中で、わたしたちは驚きに身を任せているでしょうか。それとも祈りとはおうむのように神に話しかけることだと思っているでしょうか。そう思ってはなりません。肝心なことは、信頼して心を開き、驚きに身を任せることです。いつも驚きをもたらしてくださる神による驚きに、わたしたちは身を任せているいるでしょうか。主との出会いはつねに生きた出会いであり、博物館に展示された出会いではありません。それは生き生きとした出会いです。わたしたちは博物館ではなく、ミサに行きます。わたしたちは主との生き生きとした出会いに赴くのです」。

「ユダヤ人の議員であるニコデモという老人のことが、福音書には記されています(ヨハネ3・1-21参照)。ニコデモはイエスのことを知るために、イエスのもとを訪れます。そしてイエスは彼が「新たに生まれる」(3節参照)必要があると言います。これはどういう意味でしょうか。人は「新たに生まれる」ことができるのでしょうか。悲劇的な状況に陥っても、熱意や喜び、いのちの驚きを取り戻すことができるでしょうか。これはわたしたちの信仰にとって根本的な問題であり、すべての真の信者が願い求めていることです。新たに生まれ、喜びをもって新たに始めることを願い求めることです。わたしたちは皆、主に出会うために新たに生まれることを願ってきたでしょうか。皆さんはそのような願いをもっているでしょうか。実際、人はいとも簡単にその願いを忘れてしまいます。あまりにも多くの活動や計画に携わっているために、時間が不足し、根本的なもの、つまり心の中の内的生活、霊的生活、祈りのうちに主と出会う生活を見失ってしまうのです」。

「実際、主はわたしたちの弱さの中でも愛してくださることを示すことを通して、わたしたちを驚かせます。イエス・キリストこそ「わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」(一ヨハネ2・2)。このたまものは、真の慰めの源であり――主はいつもわたしたちをゆるしておられますが――、それによりわたしたちは慰められます。これこそが真のなぐさめであり、ミサを通してわたしたちに与えられるたまものです。ミサという婚宴で、花婿はわたしたちの弱さと出会うのです。ミサの中でご聖体を頂くとき、主がわたしたちの弱さと出会っていると言ってもよいでしょうか。もちろんです。それこそが真実です。主は、神の似姿に造られたという最初の召命にわたしたちを立ち戻らせるために、わたしたちの弱さに出会います。それこそがミサで起こっていることであり、祈りなのです」。

「みんなのミサ」とはLGBTQカトリック信徒が主体となって捧げられるミサです。ではこのミサはLGBTQカトリック信徒のためだけのプライベートなミサでしょうか。いいえ、そうではありません。「みんなのミサ」はLGBTQカトリック信徒が、SOGI(性的指向・性自認)を超えて、家族、友人、パートナー、多様性を求める人々を兄弟姉妹(仲間)として招き、共に主の食卓を囲み、それぞれオリジナルな痛みと過去、そして今を、キリストの十字架に結び合わせていただき、その復活にも与る揺るぎない希望に共に生きるよう願っています。

カトリック教会の中でLGBTQカトリック信徒は必ずしも歓迎されてはいません。貞潔と自然法の観点からの罪の問題には触れても、性的指向という科学的な背景について何も言及しません。カテキズムは抜粋すればいくらでも断罪することも、同性愛者の教会での立場を擁護することもできます。それは、本質的でなく、まったく意味のないこと。

わたしたちは、できた傷を嘆くことをやめ、石を打ちつけてくるものに霊的に立ち向かい、わたしたち一人一人のもっとも内奥で常にこだまする「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1.11)という神の囁く声に信頼することを選び取ります。

もっとも個人的な事柄がもっとも社会的な事柄であるのと同じように、もっとも個人的な祈りはもっとも普遍的祈りです。もっとも内奥にささやかれた神の声は、もっとも普遍的な声です。そのことを証するためにわたしたちは痛みを抱える人々と共にミサを囲み、神の声に応えたいと願うのです。

イクトゥス・ミニストリーの最も大切なミッションステートメントは「周辺に於いて神と出会い、そこで神と人とに共に仕える」と言い表すことができます。

一括りにLGBTQと表現すると様々な誤解が生じます。いわゆる差別属性と呼ばれる中にも、弱者にされる要素の高い人々や、よりしんどい思いをしている方々がいます。同じ属性といって一括りにはできません。LGBTQカトリック信徒も同じかもしれません。意見も対立します。立場も様々です。問題に対しての態度、社会的なステイタス、オープンかクローゼットか、それだでも一括りにはできません。実際、括る必要はありません。LGBTQピープルの大きな特性として、どの属性(それが被差別属性であろうと特権階級であろうと)にも必ず存在するという横断的な属性ということがあげられます。一つの尺度や立場ではかることができない複雑さを内包しています。言えるのは、どの属性においても、公に支持を得たとしても、周辺性からは自由になれません。なぜでしょうか。LGBTQの問題は社会的な差別構造によって生み出されたものであり、生きづらさに代表される「周辺性」はLGBTQ当人に起因するものではないからです。

また、LGBTQピープルであることが、残念ながら他の被差別属性に対し寛容であるかといえば、そうではありません。すべての差別は社会的な構造に支えられています。ですから、相手の痛みを知り、相手のさみしさや心細さへのきめ細かな配慮や、相手への想像力を持つということは、被差別属性に生きる者(自覚に限らず)であっても学ばなければ身につけることはできません。そして、他者との出会いにおいて、それを可能にします。ただし、わたしたちが望まなければそれは可能にはなりません。

LGBTQカトリック信徒が特別な霊性を持っているわけでも、他のどの被差別属性やしんどい思いをしておられる方々より弱者かといえばそうではありません。ただ、自分の周辺性が、他者に対して神に出会うきっかけとなりうることを知ることは大切です。それはよりつらい思いをしている仲間との出会いを可能にします。違いに大事にすることの大切さを学びます。違う者が違う者のままで、弱者が強者のようにふるまわなくても大事にされるうちに、わたしたちはキリストの福音の価値観を発見します。

また、わたしたちはカトリック教会の中心に(それはポジションではなく)留まるミニストリーであり、聖なるミサに養われた信仰共同体から周辺へ(本当の自分自身へ)派遣され、神と出会い、神に仕えるカトリック信徒のミニストリーですから、カトリック的であることは第一義です。しかし、最も個人的なことは最も普遍的であり、違う者が違うままで大事にされることは人道的要求ではなく、神さまの招きであると理解します。それゆえに、東方教会、および、他のキリスト教会の兄弟姉妹と共に祈ることを願います。この壊れた、暴力的な、遮蔽物だらけの社会において、違う教会に属するキリスト者同士が共に祈ることのうちに、主の平和を見出します。「見よ、兄弟が共に座っている。 なんという恵み、なんという喜び」(詩編133.1)。

LGBTQカトリック信者とSOGIを問わず共に祈る心、しかも打ち砕かれた心をもつ兄弟姉妹(仲間)を歓迎して、共に聖なるミサにおいて祈り、自分自身を神さまにお捧げることのうちに「周辺に於いて神と出会い、そこで神と人とに共に仕える」ことが一つの可視化を生みます。見えないものと扱われ、カテキズムなどで散々な言われようをしてきたわたしたちが、神に喜ばれている現実を知ることにより、他者存在を喜び、兄弟姉妹(仲間)として歓迎し、互いに違う者のままで大事にしあうそのちいさな信仰の実践は、目に見える教会の祝福のカタチとなるのです。

教皇様が教える通り「弱さの神秘」を体験し、それぞれの毎日へと派遣されます。そこで、小さくされた人々とともに、小さくされたものとして、神に出会い、共に生きるのことを、宣言するのです。それは神の囁く声へのわたしたちの返事。

もう一度教皇様の言葉を読みましょう。
「ミサの中でご聖体を頂くとき、主がわたしたちの弱さと出会っていると言ってもよいでしょうか。もちろんです。それこそが真実です。主は、神の似姿に造られたという最初の召命にわたしたちを立ち戻らせるために、わたしたちの弱さに出会います。それこそがミサで起こっていることであり、祈りなのです」。

Ubi caritas et amor, Deus ibi est.
愛といつくしみのあるところ神まします。


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