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磔刑像と枝

毎年復活祭の一週間前に「枝の主日」という典礼が行われる。ミサの冒頭では枝が香と聖水によって祝別され、イエスのエルサレム入城の福音がよまれ、列を作って枝の主日の聖歌を歌いながらお御堂へと行列する。ちなみに、一つのミサで読まれる福音は一箇所なのだが、一年にこの主日だけ福音が二度読まれる。ミサの冒頭のエルサレム入城とミサ中の受難朗読の二箇所です。

この一連の典礼はただイエスのエルサレム入城と受難を語り継ぐだけでなく、今生きているわたしたちにもイエスの十字架の出来事へと追体験(想起)するよう典礼は招いています。週の初めには人々はイエスを救い主・王として歓呼の声を持って迎え入れた心が、たったの四日でその同じ口が「殺せ!」「十字架につけろ!」と冷徹極まりなく残酷なものへと変わってしまう。

これは二千年前の人々の所業ではありません。このわたしたちも同じ心を持っていることを忘れないでいたい。イエスとの友情を深めた時、同時に、このわたしがイエスの死を要求した者でもあることを忘れないでいたい。

ところで、カトリックにはこの日もらった枝を持ち帰り、十字架の近くに飾る習慣があります。子どもの頃、神父様が説教の時に、ユーモラスに「夫婦喧嘩した時にこの十字架につけた枝を見上げなさい。そして平和を取り戻しなさい」と言っていた。歓呼の叫びをあげながらもたったの四日で「殺せ!」と叫ぶ弱い心(同調という意味でも)を持った存在であることを思い出しなさい、という意味であろう。

また、カトリックの祈りの中で、自分の傷や罪や苦しみやトラウマなどを祈りの中で具体化させてイエスの十字架に一緒につけてしまうという黙想があります。自分の罪の傾き、悪習、苦しみ、傷、それら全てを十字架に釘付けにされたイエスの御傷とともに十字架につけていただくことによって、復活の命に結ばれ次のステップへと踏み出していくことができます。

そうして一年を通して、平和を失った時には平和を取り戻し、自分が弱く脆い心の持ち主であることを思い出させていただき、自分の罪の傾きや、傷や苦しみをともに十字架につけてもらい、一年間のその「わたし」が染み込んだ枝を灰の水曜日前に教会に持ってゆき、真っ黒な灰にして回心のため額に十字を記していただくわけです。

普段、何気なくしている習慣の意味を改めて考えることは信仰生活の上でとても助けになることがあります。この枝の出来事と十字架と切っても切り離すことの出来ない存在である聖母マリアの取り次ぎによって、平和を取り戻す恵みと、傷や罪から立ち上がっていく恵みを願いたいものです。

原罪なくして宿たまいし聖マリア、御身により頼み奉るわれらのために祈り給え。

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