キリスト教の本質とは
日が改まり、クリスマスを迎えた。
時差の関係で日本は世界でも一番早くクリスマスを祝う国のひとつだ。
今日は午前中に地元の教会か、かつて住んでいた街の教会のミサに行くつもりだ。
私はカトリック教徒だ。同時に、映画で描かれたカトリックの犯罪を研究する研究者でもある。
カトリック教会は、二千年の歴史の中で多くの犯罪を犯した。それらは皆さんが学校の歴史の時間に学んだと思う。それ以外にもカトリック教会はたくさんの罪を犯してきたし、未だに謝罪していないものもある。
個人もまた罪人ばかりだ。もちもん私もそうだが、現政権には教皇と同じ洗礼名を持ちながらカルトの統一教会や日本会議に魂を売った者、カトリックの作家夫婦でありながら、差別を行う者など枚挙に暇がない。
もともとカトリック教会は、金持ちや人生の成功者の社交の場であるので仕方がないが、せめて権力の座にいるうちは弱いものに憐れみを持っても良いのではないか。
人生は理不尽なものである。恵まれた者だけが勝ち上がる仕組みになっている。そこには努力や能力が介入する余地はない。貧しい家庭に生まれて教育を受ける機会に恵まれなければ、豊かになることは出来ない。反論はあるかもしれない。でも、考えて欲しい。もし、努力することすら許されない環境にいたとすれば、どう足掻いても所詮は這い上がることは出来ない。政情不安の中東に生まれた人やナチス・ドイツ支配下のユダヤ人など、運命の悪戯に翻弄されて、苦しみを受けて一生を終えることになる。
最近、NHKのBSで放送された「歪んだ波紋」でこんなセリフがあった。
「階級社会になり、一度落ちた者は二度と救われないのが今の日本だ」と。
しかし、このドラマに救いがあるのは、主人公のこのセリフだ。
「世の中にはもっと優しくて小さな世界がある。貧しくても、隣人を慈しんで子供の成長を見守り、小さくても誰かのためになる仕事に誇りを持って毎日を精一杯生きている人がいる」
さて、本題から随分逸れてしまった。結論を書こう。キリスト教を信じても、金持ちにならないし、人生で成功はしない。逆境の中で苦しんでいても神は助けてくれない。それでも私達は信じなければならない。
キリスト教の本質は、洗礼を受けることでも、献金することでもない。善い行いも人間としてはするべきだが、これは救いの条件ではない。
私達が一生を終えたあと、神の国に招かれるにはイエスが救い主であると信じることである。それさえあれば、十分に信仰を持った人生だったと言える。
メリークリスマス。
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