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ほんのちょっと置き去り事件

1つのことに夢中になると、他のことが目に入らなくなる性格だ。

仕事でも勉強でもそうなのだが、夢中になるとそれ1点にのみ全てのリソースを投入してしまう。プライベートも、肌の調子なんかも、喜んで捨て去る。「絶対に成功したい」というモチベーションと、「絶対に失敗したくない」という恐怖のどちらもが、自分を突き動かすのだ。

それだけならば見ようによっては格好良いが、それに加えて怠惰で連絡不精である。

まったくマメではないので、友達に対してもこちらから連絡することがとても少ない。そんな私に対しても、連絡や遊びの誘いをくれるありがたい友達が何人かいるので、それに対しては喜びと感謝を持って応じるようにしている。ちゃんと伝わっているかわからないが、いつも本当にありがとう。

ただ、時々、あまりにも夢中になることがあり、さらに怠惰な性格がいかんなく発揮される時、ありがたい連絡やお誘いすらもキャッチできないことがある。


例えば、大学1年生の時。第一志望に合格し、サークル(オーケストラ)にも入部した私は、まさに「夢のキャンパスライフ」を謳歌していた。授業も、楽器の練習も、恋も、毎日が楽しかった。大学のことで頭がいっぱいだったと思う。

そんな時、小・中学校の親友から久しぶりに電話がかかってきた。要件は、「ずっと昔に借りてたCDがあるから返そうと思って」だった。そういえば貸してたな、と思いながら、でも今はもう聞かない気がして、CDはあげると言った。その後何を話したかはあまり覚えてないけど、お互いの近況を報告して電話を切った。

今思えば、彼女は久しぶりに会いたかったんじゃないかなあと思う。その場で気づいていればそれを無視するほど人でなしではないが、久々の電話の意味を顧みることはしなかったのは確かだ。忙しいキャンパスライフの中に、すぐにその出来事は埋もれていった。その後も連絡はお互いになかった。もしかしたら相談したいことなんかもあったのかもしれないのに。

他にも、いつかの同窓会で再会したクラスメイト。たぶん彼は、学生の時少し私に好意を持ってくれてたと思う(もし違ったらとんだ勘違い野郎でごめん)。その彼が、夢だったバリスタになったというので、お店の名前を書いたメモをくれた。もう名前を忘れてしまったのだが、確か大学からも遠くないカフェだったと思う。その時は素直に喜ばしく、行こう行こうと思っていたが、やはりサークルや研究で忙殺されついに行かずじまいだった。

最近は、そんな彼らのことを思い出すたび、「ほんのちょっと置き去りにしてしまった」と感じる。

もちろん彼らはある程度大人だし、友達とは言え他人なのだから、「置き去り」にされたところで迷子のようにずっとその場で立ちすくんだりはしないだろう。私の他にもたくさんの友人がいただろうし、恋人なんかもできたかもしれない。

でも、その一瞬生じたであろう寂しさは、今だからこそ顧みることができる。そして、今現在夢中になるものがない自分自身も感じているのだ。皮肉なことに。

加えてとても残念なのは、彼らの連絡先がわからないことだ。

私の学生時代はちょうど連絡手段の過渡期で、スマホが普及し始め、みんな徐々にEメールからLINEへと移行していた。

LINEはアドレス帳に登録された電話番号を自動的に吸い上げて連絡先にしてくれるが、メールアドレスのみの登録だと反映してくれない。だからメールアドレスしか知らない人には個別に連絡しないといけないのだが、これまた私の怠惰な性格が災いして、たぶんそれをやらなかった。で、機種変更だのスマホが壊れただのとやっているうちに、古いアドレス帳というのはだんだん淘汰されていく(これは私だけじゃないと思いたい)。

ちゃんとやっておけばよかったのに、と思う。


私は、一度夢中になると周りが見えない。もちろん、そのおかげで成果を出せたこともある。というか、挫折を成果で見返すために夢中にだった節も時にはある。おかげでそこそこの成果は手に入った。きっと、社会を渡っていく上では、そこそこ良い武器だろう。しかし、これは自慢でもあり恥でもある。ものすごいスピードで駆け抜けていったが故に、「ほんのちょっと置き去り事件」は発生しているのだ。

ここで1つ、私の中の挫折と成果に対して提案したい。挫折君と成果君、君たちの終わりなき闘いは一旦手打ちにするというのはどうだろう。走り続けるのは私も疲れたし、何より、立ち止まると「置き去り」にした人たちの姿がよく見えてそれは寂しいのだ。これ以上「被害者」を増やしたくない。

それ以外のを全て投げうって達成しました!というのは本当のキャパシティじゃない。私のキャパはもう少し狭いのだ。目標以外に目を向ける心の余裕も必要経費に計上するべきだった。でも、今気づけてよかったと思うより他ない。「今度」というものはないと知りながらも、もし再会の機会が巡ってきたら逃さないようにしておこう。そして、その上で今後どうやって生きていくべきか、ちゃんと考えるのだ。




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