マーケティングの新潮流~エモーショナル・レスポンス・マーケティング11
◎「人格提供」にはさらに2つのパターンがある
話が少し逸れてしまった。女性をターゲットとしてのみ語りたいわけではない。この人格を提供するという手法は、男性だろうが、女性だろうが、とても有効だ。
客が求めていることは、結局自分にどういうメリットがあるか、ということしかない。もちろん、社会的に意味があるとか、将来の世代のことを考えている人もいるだろう。しかしそれでも人間というのはどこまでいっても自己中心的な存在だ。
先に、商品は客のメリットを強調して売られると述べたとおり、やはり人間は自分のことしか考えていない。だからその点を攻める。あるいはその点をかなり強調した商品が多くなるのは当然だ。
ここで、この「人格提供」手法で繰り広げられるパターンをより細かく見ると、
1. 「金儲けができる商品」
2. 「新たな自分になれる商品」
の二つに分類することができる。
1.「金儲けができる商品」は、自分が成功できるか、あるいは自分が金融商品などを操ることによってお金持ちになることができる、本当に自己中心的なニーズ則った商品だ。これはどの世代、どの時代でも売れる。
「金持ちになれる」という文句の前後には、必ずと言っていいほど、「今のままでいいんですか」「老後の生活はかなり心配ですよ」といった文言が並ぶ。つまり、今のままのあなたではない、いいマンションに住み、高級車を所有するあなた、というイメージを植え付けようとする。新しいステージに上がることができるという人格を伴っている。
そういう意味では、1.の「金持ちになれる」は2.「新たな自分になれる」とも同意義だとはいえる。ただし、2.の分野はやや美容・健康分野で謳われていることだ。たとえばダイエットや美容、整形、あるいはブランドバッグ、さらには自己啓発などもこの分野に入る。名誉や承認といった、周りからの評価を上げるための商品である。
このような商品を売る場合には、「知的な自分に出会ってください」「これまでのあなたは本当のあなたではありません」といった文句が踊る。これまでの自分には問題があった、あるいは本来の自分ではない。だからあなたは、「本当の幸せ」や「本当の自分」に出会えていない、かわいそうな存在である、ということをことさら強調する。これを解消して、次の次元の自分を手に入れましょう、というものだ。
やや長々と話しをしてきたとおり、これまでと異なる自分を創出するというのが、「人格を提供する」というエモーショナル・レスポンス・マーケティングのキーワードとなる。
◎「経験を強調」して金を払わせる
そして3番目の「経験を強調する」だ。これは要するに、メリットや便利さを求めてモノを買うことに飽きてしまった人たちに、これまでに経験したことのない非日常を提供することだ。少なくとも、非日常性を強調することである。モノが売れなくなってきた現代では、まさにこれから「経験経済」が始まると言った人さえいる。
そもそも人は、お金を何に使うのか。お金は仕事で得た報酬であるものの、多くの人は莫大なお金を貰っているわけではない。一流会社に勤めている人でも、お小遣いのことや、住宅ローンのことなど、人並みの悩みを抱えている。給料が低かろうが高かろうが、どんな人でも満足することはないから、恒常的に誰もが「もう少しお金があれば」と悩んでいることになる。
そのなかでも「経験」を売りにする商品がかなり増えてきている。
たとえば海外旅行で一番楽しいのは、どこに行こうかとプランを練っているときだ。このことは、多くの人が感じていることとも合致するだろう。そこに着目したアメリカの旅行会社がある。これまで旅行会社は、客の行き先が決まっていて、そのためのチケットや宿泊場所をいかに安く提供するか、あるいはいいホテルやオプショナルツアーを提供するかということに注力してきた。
そのアメリカの旅行会社が面白いのは、そのようなチケット手配やホテル予約、オプション手配という行為は、旅行を決める際の行程の2割にすぎないということに気付いたことだ。残りの8割は、どこに行こうかとか、どういう雰囲気を味わいたい、予算はどれくらいだから、この国は無理だとか、あるいはガイドブックを見たりして吟味する時間に使っている。
そこでどうしたかというと、お客に最初に行き先を聞くのではなく、どのような雰囲気、どんな感情を味わいたか、何を経験したいのか、ということをまず最初に聞き出した。
すると、購買決定のプロセスの8割に介入することができるようになったために、その旅行会社はかなり高い売上をあげることに成功した。2割の購買プロセスを相手にするよりも、8割の購買プロセスを相手にしたほうが当然お金になるわけだ。
ここで重要なのは、「こういう経験ができるのではないか」と思わせること。まさに希望ビジネスのような夢を抱かせること。そこにある。これまでの①「有益な暇つぶしであることを強調する」、②「人格を提供する商品であるということを強調する」、③「経験を強調する」は、それぞれ単独ではなく、お互いが大きく関係している項目だと分かるはずだ。
もうひとつの例を挙げると、ディズニーランドだ。ディズニーランドに対して、すごく楽しい思い出を持っている人も多いだろう。ディズニーランドのアトラクションはバラエティに富んで面白いし、ずっと未完成のまま拡充が続いている。ただ、アトラクション・乗り物が楽しいというよりも、たとえば好きな女の子とデートをしたり、あるいは家族で幸せなひとときを過ごしたり、そういった雰囲気や思い出がいちばん重要だ。ゆえに、こうした楽しいと思わせる雰囲気を醸成することに、ディズニーランドは最も特化している。つまり、経験を売り物にする際に重要なのは、夢を見ることができるかというところにある。
よくビジネス書の中で、成功本と呼ばれるものが爆発的なヒットをすることがある。その理由を一言でいうと、読めば成功できそうな「気」がするからだ。幸せな雰囲気にしてくれるからだ。だから成功本は内容としてはほとんど同じであるにもかかわらず、表面上の表現を変えたものが、手を変え品を変え次々と出てくる。
「もし成功本を読んで成功するのであれば、これほどたくさんの成功本が出るはずはない」というようなジョークさえある。要するに、成功本を読むことと、実際成功するかどうかは関係ない。ただ、成功本を読むと夢を見ることはできる。まさに、経験することができる。自伝であれば、成功した人がこれまで歩んできた道を追体験することができる、少なくとも追体験した気になれる。
先ほどの旅行にしても、学生や若い社会人が「自分探し」という名目で、海外に出かけるブームがあった。しかし本当に自分探しをしたいのであれば、自分のことをよく知っている周りの人に聞いたほうがいい。
そういう意味では、自分探しのための旅は、実は「自分なくし」の旅ではないかと思う。自分のことをまったく知らない人たちの中に身を置きたいという願望、それは自分の「不都合な真実」を知る人、耳の痛い話をする人から離れて、自分が頭に思い描いている自己像を本当の自分だと勘違いしたいからだ。「能力も才能もない自分」を探したい人というのはいない。自分探しで重要なのは、「明るくてポジティブで能力があり、将来に対して可能性が開けている自分」というものを求めていることだ。
だからこそ、自分を知っている人のいない国・地域が必要となる。周りの人が自分のことを知っていれば、これまでの自分というものをベースに考えざるを得ない。しかし、まったく自分のことを知らない土地ならば、真っ白なキャンパスの上で、自分がなりたいと思っている姿を描くことができる。
このように、「なりたい自分になる」「自分探し」という言葉は、思考停止の重要なキーワードでもある。そもそもサービスにお金を払うということは、「こういうものになりたい」という願望を叶えることだ。ゆえに、エモーショナル・レスポンス・マーケティングにおいては、そうした客の願望に対して「絶対にかなえられる」という思い込みを強く植え付けようとする。
非日常を経験させるというビジネス。少なくとも、非日常を経験できるかもしれないと思わせるビジネス。物質経済のあとに到来しつつある経験経済の世界においては、私たちがお金を払うキーワードは、そんな「コト」である。
* * *
本連載の冒頭で、かつて自ら主催していた勉強会に講師をお願いするときのエピソードについて述べた。
実は、もう一つの忘れられないエピソードがある。
その勉強会を終えようとしていたときに、主要メンバーで集まって、一つの総括をしようとしていた。これまで講演者から聞いた人生論や教訓、そして仕事論。どう働けばよいのか、どう生きればよいのか。演台に立つほどすぐれた人たちは、これまでどのような工夫を施してきたのか。
それまでの講演の要諦をまとめると、たった三つの点に集約することができた。
①朝早く起きて仕事をすること
②学び続けること
③人にはできるだけ優しく接すること
朝から仕事を重ねて、学ぶことを忘れず、そして周囲に優しくすれば、たしかに仕事の成功が待っているだろう。そして、それらを愚直に続けてきたことが、たしかに彼らの優位性を確保していたのだろう。
それにしても、なんと凡庸で、面白みのないものだろうか。
私たちが聞いてきたり読んできたりした成功譚は、せいぜいこの三つを混ぜ合わせたり、表面的には目新しい言葉をまぶしたり、あるいは細かく砕いたりしながら、この凡庸さを凡庸と感じさせないようにしていただけなのである。
でも、この三つだけでは講演にはならないね、とみんなは笑いあった。
しかし、私だけは笑えずにいた。
大切なのはその三つの凡庸な習慣である。しかし、私たちは、その凡庸さに耐えることができないのではないか。私たちは、ほんとうに大切な凡庸さに耐えることができず、いつでも過剰で皮相的な言葉を求め歩いている。
英語を学んでも、資格試験に合格しても、転職しても、メディアに出ても、人生が劇的に好転することはない。メディアで紹介される成功譚は、あたかも一つの出来事が、誰かの人生に影響を与えたように描かれる。しかし、実際の人生はそれほど単純ではない。たった一つの出来事だけが人生を激変させることはない。凡庸な私たちは、凡庸な努力の重なりのなかから、少しずつ、少しずつ、人生を良い方向に向けていくしかないのである。
といいながら、それほど醒めきった私であっても、ときに人生の逆転をふと希求していることがある。そのとき、また「他人はそうかもしれない。でも、自分だけは特別かもしれない」という邪険な思いが、また私は過ぎろうとするのだ。おそらく私たちは、平凡で、特別でもなく、無数にいる人間のなかの一人、という存在規定に耐えられないのだろう、と思う。宇宙のなかで、ちっぽけな自分、というどうしようもない無力感を抱きたくないのだ。
自分にだけ降り注ぐ奇跡。それを求めようとする気持ちが、スーツにまとわりついた煙草のけむりのように、私たちから離れない。
次章で述べたい内容は、まさにこの「自分だけは特別である」という思い込みについてだ。
* * *
その勉強会の最後の飲み会で、私たちは帰るあてもなく、朝の渋谷をぶらついていた。各界の有名人を呼んで話を聞き、著名人たちとコネクションを築くことによって、自分たちの人生を好転させることができるのではないか――。そもそも、そのような意図をもってはじめた勉強会だったが、どうも文字通り「凡庸」なところで終わりそうであった。
要するに、飲み会は開いたが、それでおしまい。著名人と仲良くなったところで、それが何らかの改善につながるわけでもない。少しのミーハー気分と、少しの虚栄心を満たしただけだった。
3時頃から入店したビルのなかのバーから、明け方の渋谷駅を見ていると、誰かが「始発が動き始めた」といった。
渋谷駅につながっているJRと、東急と、地下鉄と、京王がこんがらがって、一つの音を形成しだした。朝方の駅の寂しさは、なんとも言いがたい。酔いつぶれたものや、騒ぎ足りないものや、だるく一日をはじめたばかりのものたちの、だらだらとした雰囲気が充満していた。
「電車が来たよ」とまた誰かがいった。
しばらくすると、また
「電車が来たよ」と誰かがいった。
もう勉強会終了の感傷に飽きて、もう「帰ろう」というメッセージだった。電車が次々にやってきたが、その違いはなかった。東からやってきて、30秒ほど立ち止まって、西にぬける。あまりに正確に、かけぬけつづけていた。
最後の晩餐を終え、ふらふらになりながらホームに歩いていると、私たちと同じような朝帰り組と重なりあって、私はついにさきほどまで飲んでいた連中を見失ってしまった。歩いている人たちの顔を見ていると、彼のものも、彼女のものも、違いがわからなくなった。そして、私はたしかに、群れのなかの一欠片にすぎなかった。右も左もわからなくなった。自分がどこから歩んできたのかさえ、わからなくなった。
自分が特別な存在ではなく、多くのなかにいる、たった一つの人間にすぎない、と思うとき、なぜだか渋谷のあの光景が浮かんでくる。
ああ、もう6時だ。
凡庸な私は、そのまま自宅に向かって電車に乗り出した。
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