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わたしの崇敬神社とお寺

わたしの氏神さんは、てくてく歩いて2〜3分程のご近所にある「高龗神(たかおかみのかみ)」を主祭神とする神社さんです。高龗神はイザナギさんの御子にして水を司る水神さん。三匹の龍をお使いとして遣わすのだといわれています。

一方、住んでいる場所をお守りくださる氏神さんに対して、自分の生まれた土地に起因するのが産土神(うぶすながみ)さんですね。わたしの産土さんは都内某区にあって「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」を祀っておられます。武蔵国の一の宮の流れを汲むといえば、おわかりになられる方がいらっしゃるかもしれません。子どもの頃、境内で散々っぱら遊ばせてもらっていたにもかかわらず、オトナになった今はもはやご縁がなく、なかなか訪れる機会を作れないので心苦しいのですが。

基本的には神社の場合、この2つを大切に想い、足繁く通って、つながりと感謝の気持ちを絶やさないのがいいらしいですね。

産土神さんはすっかり縁遠くなってしまいました(近いうちにご挨拶だけはしておきたいと思っています)が、今住んでいるご近所の氏神さんには月に何度か家内と二人でご挨拶に伺っています。別になにかを祈願するわけではなく「いつも見守っていただいてありがとうございます」と、恙きをご報告するためにです。


「さらなる発展を」とか「商売繁盛を」なんてお願いごとをさせていただくのは、もっぱら別の神社やお寺です。こういう、自分とはご縁もゆかりもないのに足を運ぶ神社を崇敬神社といいまして。わたしの場合は、毎年初詣で並ぶ港区・大門の芝大神宮さん、あるいは新橋の烏森神社さんなどがそれにあたります。

なぜこの2社かというと、なんだかとても〝気が合う〟んです。訪うと、体の中にいい気が満ち満ちていくようで。近くに行った際はできるだけ手を合わせに立ち寄らせていただいてます。実はこないだ、明治神宮さんや日枝神社さんにも伺いましたが、なんだかやっぱり違いますね。もちろん、いいとか悪いとかではなく、ホッとできるというか。ちなみに我が家の神棚の向かって左手(崇敬神社)に掲げてあるのは芝大神宮さんのお札です。

お寺だと、目黒不動尊で有名な天台宗の瀧泉寺にもよく伺いますね。
ここはクリエイター仲間から紹介されて、「一度お参りしてごらん。次の日、新しい仕事の話が湧いてきてビックリするから」といわれ、さほど期待せずにお参りいたしましたら、帰り途で携帯電話がブルブルっと鳴りはじめましてね。わりと大きな仕事のオファーで、こんなこともあるのかと驚きました。
それ以来、何かいいことがあると御礼参りに足を運んでいます。

あと、家族みんなで定期的に行くのは川崎のお大師さんです。こちらは正式には平間寺(へいげんじ)といって真言宗智山派の総本山。節分の時期などは豆をお土産で買ってくるんです。
わたしの守り神はどうやらお不動さんのようで。会社名義の護摩札は毎年この大師さんでいただいたものを祀っています。このお寺の護摩祈祷は圧巻の迫力。広い本堂の中で大音声の真言が鳴り響き、その場にいるだけで背筋がしゃんとして、心身が浄化していくのを感じます。

だからかなぁ。ついつい、わたしなんぞがご挨拶に伺っていいのかしらと尻込みしちゃうのは、神田明神さんとか、大手町の首塚とか、北新宿の鎧神社さん。将門公にゆかりのあるお社です。これまで、行こうと思えば行けないことはなかったはずなんですが、たまたま近くを通った際に空き時間があったとしても、道に迷って辿りつけなかったり、別の用事が急にできてその場を離れざるを得なかったり、なんだかご縁が閉じられていた気がします。

その昔、将門さんは朝廷のくびきを脱して関八州で〝新皇〟を名乗った人物です。いうなればお上に反旗を翻した朝敵。それに対し、お上は討伐軍として俵藤太(藤原秀郷)を差し向けたわけです。さらに、将門公を調伏するために21日間にわたって行なわれたのがお不動さんの護摩祈祷。それが起因となってか、以来、不動明王を祀る成田山新勝寺と、神田明神は因縁の間柄になったようで、お不動さんをお参りしたら、将門公を詣でちゃいけないと、なんとなく無意識のうちに刷り込まれていたのかもしれません。あと、これは偶然でしょうが、烏森神社も調べてみたら、将門公を討ち取った藤原秀郷さんが戦勝祈願をしたとされる神社でした。その烏森神社で清々しさを感じるとなれば……なんとなく、ね。

わたし自身はこの将門さん、決して嫌いじゃないですし、むしろ東京を守護してくださっているヒーローとして内心崇め奉っているんですけれどね。こちらが好意を寄せていても歓迎されないのであれば、触らぬ神に祟りなし。よほどのお告げでもない限り、無理してお邪魔してご挨拶をしようとは思いません。


パワースポット探訪や御朱印ブームと相俟って、ずいぶん前から神社仏閣を巡る人が増えてまいりました。

旅行先で旅の息災を祈念したり。あるいは福のお裾分けを願ってお参りしたり。有名な神社やお寺で御利益がありそうだからと、わりかし気軽な気持ちで足を運ぶなんてケースもあるでしょう。受け容れてくださるお社さんやお寺さんは、参拝客が増えるのでウェルカムだとは思うんですが。個人的には物見遊山であっちこっちの神様仏様に願掛けして回るのは大丈夫かしらという思いもあります。

なんだか〝行くのが目的〟になっているところもあって、そこに神さんが祀られている意味が掻き消されてしまっているような気がするからです。

具体的にいうと、例えば前述した素戔嗚尊さんは治水と疫病を司る神さんであることから、祀られている神社は、そこで水害を食い止める意図から建てられたなんて説があるんですよ。つまり、素戔嗚尊さんは地元の人々の期待に応えてその土地を守るお役目を担っているわけです。

そこに、たいして信仰心をお持ちじゃない人々が、ご挨拶をするだけならまだしも、わりと煩悩丸出しな願掛けに押し寄せたらどうなるでしょう。神さんは人にやさしい存在ですから、頼られたり縋られたら、願いを聞き届けようと頑張りますでしょ。本来発揮しなければならないチカラが削がれることだってあるんじゃないかしら、なんて思うんですよね。どうでしょうね。

また、スピ界隈では、ここ数年来、結界崩しという問題がマジメに交わされています。日頃、氏神さんや産土さんをないがしろにしておきながら、軽いモチベで霊験あらたかな神社を巡る行為が、実はあんましよくないことだと、言われていたり、いなかったり。最近、地震だ台風だと厄介ごとが続けざまに起きているのも、なんとなくそれと関係があるんじゃないかなぁなんて、思ったり、思わなかったり。

ま、でも、キチンと敬う気持ちを携えて、失礼なきよう弁えて参拝するのなら、それはそれで神さんや仏さんも喜んでくださるとは思うのですけれどね。
くれぐれもスタンプラリーの感覚で、あちらこちらへ、ほいほいと、お参りツアーに興じるのはおやめになられたほうが……なんて思う今日この頃です。



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