第38回:大和心編2 日本の外来語問題|日本人でありながら、何の因果か異国の手先・・・「てめぇら、許せねぇ!」
呆れて物も言えない・・・。
外来語。
即ち、カタカナ用語のことだ。
そのカタカナ用語が、現在の日本国内では驚く程氾濫している。
果たして、今の日本人には「節操」があるのだろうか。
日本人でありながら、我が国固有の日本語を平気で捨て、外つ国(とつくに)の外来語由来のカタカナ用語ばかりを用い、何でも表現しようとする。
亡国・・・。
その様に表現にしても過言ではない嘆かわしい状況を呈しているのが、現代の日本である。
例えば、近年、日本政府が掲げてきた政策を幾つか列挙してみよう。
クールビズ、アベノミクス、クールジャパン、インバウンド、go toトラベルキャンペーン、マイナンバーカード、ムーンショット計画・・・等々である。
読んで字の如く、これらの政策を見ればみな外来語であり、カタカナ用語ばかりが目に留まる。
日本政府は「日本」と銘打っているにも拘わらず、何故、古くからある日本固有の言語を使わないのだろうか。
これは与党の政治家だけではなく、野党の政治家も同様で、かつての「民主党」は自ら掲げた政策をマニフェストと呼び、渡辺喜美氏が率いた「みんなの党」は政策をアジェンダと呼んでいた。
どちらも国民から票を得る為に掲げた政治政策であり、マニフェストやアジェンダを日本語で簡単に表現すると「宣誓」という意味になる。
要するに、政治家の宣誓とは、「自らが掲げた政策に国民の皆様が同意してくださるならば、その宣誓をお約束通り実行し、この国をより良くしていきます。」という趣旨の表明である。
いったい、野党の彼らは、何処の国の政治家になろうとしているのだろうか。
我が日ノ本の国の政治家になろうというのであれば、言うまでもなく、日本人として日本語を掲げていくのが本旨であるはずだ。
それを宣誓と言わずに、賢しらにもマニフェストだ、アジェンダだなどと外つ国の言葉を使う愚昧な野党の政治家に対して、「お前らは何人だっ!」と、私は声を大にして言いたい。
これは与党の政治家に対しても、全く同じ事が言える。
日本人でありながら、政府の政策にカタカナ用語ばかり多様するとは、「お前らもいったい何人だっ!!」と、やはり声を大にして言いたい。
(一説によると、今の日本の政治家は、日本人ではなく外国人であると言われている。この大和心を忘れた言語問題からしても、それは彼らが外国人であるという証左なのかもしれない。)
大和心(日本人古来の精神)はいずこへ・・・。
生粋の日本人の私からしてみたら、我が国の代表者であるはずの政治家達がこの有様では、最早、呆れて物も言えない・・・。
官もこの様(ザマ)なら、民もこの様・・・。
我が国における、カタカナ用語の氾濫。
国を預かる政治家達のこのような有様を見て、私は呆れて物も言えないのだが・・・現状が余りにも酷過ぎて、物申さぬ訳にもいかなくなってしまった。
このカタカナ用語の濫用は「官」だけではなく、「民」にも当てはまる問題なのである。
例えば、日本の飲食店業界では、このようなカタカナ用語が頻繁に使われている。
朝の「モーニングセット」、昼の「ランチセット」等である。
私が二十歳の頃、横浜そごうに向かう途中のポルタ地下街にあった寂れた喫茶店でアルバイトをしていたが、やはりこの店にも、モーニングセットやランチセットのメニューがあった。
私が端金を稼ぐアルバイトの日は、いつもこのモーニングとランチの用意をしていたのだが、その時、よくこのように思ったものだ。
何故に「朝食や昼食と言わないのだろうか?」と。
しかも、店の前には本日のセットとして、メニューに「モーニングセットA、B」などとホワイトボードに書き込むのだが、やはり私は日本人として、この「メニュー」という言葉も気に入らなかった。
日本語では、お品書きという言葉があるのに・・・。
ただ喫茶店の一般的な印象としては、和よりも洋の要素の方が強いので、朝食、昼食というよりも、モーニング、ランチといった方が、お店の雰囲気に合っているのだろう。
そういう観点からみれば、喫茶店ではお品書きよりも、メニューといった方が世の印象に適っているのだ。
要するに、喫茶店ではカタカナ用語を使った方が「お洒落に感じられる」のである。
さらに飲食店業界には、次のような言葉の問題もある。
それが「デリバリー」と「テイクアウト」という言葉だ。
昭和の時代なら、デリバリーなどという外来語は使わず、「出前」という言葉を日常生活の中で使っていた。
例えば、「寿司の出前を取るか。」とか「蕎麦の出前を取ろう。」といったように、各家庭や職場で普通に使われていた言葉が、出前である。
それが今はどうか。
出前という言葉は我が国からは消え失せ、外つ国から入ってきたデリバリーという言葉が一般的になってしまった。
恐らく、デリバリーという言葉が一般的に広がったきっかけは、ドミノピザやピザーラといった宅配ピザのチェーン店が国内で展開された事によるのではないか。
私の記憶が確かなら、それまではデリバリーという言葉は国内では聞かれない言葉だったはずである。
何故なら、日本には、出前という言葉が古くから定着していたからだ。
そしてテイクアウトという言葉も、近年、頻繁に耳にする。
特に、コロナウイルスの世界的な蔓延に対して政府が取った自粛政策により、店内に客を取れなくなった飲食店がテイクアウトという形で営業を展開した為に、この外つ国の言葉がコロナウイルスと同様に我が日本に蔓延してしまった。
(なお、コロナウイルスは存在せず、日本政府や厚生労働省もこのウイルスの存在を認知していない。何故なら、未だに世界中のどこを探しても、コロナウイルスの発見者がいないからである。)
本来なら、日本ではテイクアウトとは言わずに「お持ち帰り」という言葉をごく当たり前に使っていたのだが、気が付いたら、いつの間にか飲食店業界は「外来語の嵐」のようになってしまったのだ。
このことからも分かるように、日本人は外来語が云々というよりも、他の人種と比べて、「言葉の印象からその雰囲気をとても重んじる人種」であると言えよう。
これは日本の飲食業界に限らず他の各業界にも言えて、何でも外来の横文字を使うようになったのは、今述べたように「日本人は雰囲気にとても敏感」であり、「印象の良さ」を取る事から、従来の日本語よりも「お洒落に聞こえる」であろうカタカナ用語を主に用いるようになってしまった。
(余談になるが、日本人は雰囲気にとても敏感である為に、これが悪く作用してしまうと、今回のように周りがワクチンを接種し出すと「私も打たなきゃっ!」となってしまう傾向が強い。即ち、日本人の多くは「自我の無い風見鶏」なのである。)
例えば、アパレル業界等では、「セールやバーゲン」という言葉を使うが、早い話、「安売り、特売品」ということであり、不吉だが葬儀業界では「セレモニーホール(メモリアルホール)、エンディングノート」等と言う言葉を使ったりするが、これも昔ながらの日本語を使えば、単に「葬儀場と遺言」である。
この精神世界では、「スピリチュアル」という言葉を使えばとても綺麗な響きに聞こえるが、日本語では「霊的」という言葉がこれに該当する。
この日本語の霊的という言葉から受ける印象は、「霊」という漢字を使うと、「未成仏の幽霊」や「80年代中期に流行った恐怖の心霊写真」等を連想させるので、どうしても忌避的な印象を受けてしまう。
それで精神世界の業界では、霊的という言葉は表面的には使わず、スピリチュアルという響きの良いラテン語の言葉を代用しているのである。
しかし、霊という漢字の一文字は、今挙げたような低級霊を指す言葉ではない。
本来、霊とは、神社の高級神霊というように、この宇宙における「より高い段階の霊性」を意味し、「霊」は「神(宇宙)」と同義語である。
因みに精神世界でいわれる「オーラ」という言葉も、スピリチュアルという言葉と同じ言語のラテン語から来ている。
このオーラを日本語に訳せば、ただ単に一文字の「気」であり、現代の日本語で言えば、「波動」という言葉がこの「気」に該当する。
(なお、ラテン語とは古代ローマ帝国で使われていた公用語で、現代のフランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ルーマニア語等は、このラテン語がローマ帝国が支配していた地域性により訛伝(かでん)し、西欧の言語になったのである。よって、これらの国々の言葉はラテン語の兄弟なので共通性がある言語である。)
このように、日本に流入してきたカタカナ用語を鑑みるに、恐らく次のようなことが指摘出来る。
今挙げたアパレル、葬儀、スピリチュアルの業界の言葉を、改めて日本語で羅列してみよう。
安売り、葬儀場、遺言、霊的、気・・・等である。
これを例のカタカナ用語で記述してみる。
セール、バーゲン、セレモニーホール、エンディングノート、スピリチュアル、オーラ・・・。
日本語とカタカナ用語を比べると、どちらの方がポップでソフトに感じられるだろうか。
言わずもがな、日本語ではなくカタカナ用語の方である。
即ち、日本語を現代の日本語で表記すると、カタカナ用語と比べてどうしても「地味」または「渋く」感じられるのではないだろうか。
その為、商売を展開していく上では、カタカナ用語を多様せざるを得なかった可能性を指摘できる。
言ってしまえば、日本人という人種は他人種と比べて流行に敏感なミーハーと見ることも出来るが、ただ日本人がミーハーという理由だけでは、この国に外来語がここまで氾濫する程、定着はしなかったであろう。
実は、この国に外来語の定着を極端に促した「下手人(げしゅにん)」が存在するのである。
(下手人とは江戸時代の言葉で、現代で言えば「容疑者」のことである。)
その下手人とは、一体誰なのであろうか。
外来語を氾濫させた下手人は「カタカナ」である
ズバリ、この国に外来語を氾濫させた張本人とも言える下手人は、何を隠そう「カタカナ」という文字である。
日本語は三つの文字で形成されている言語文化だ。
一つは「ひらがな」であり、もう一つは「カタカナ」、三つ目は支那から輸入した「漢字」である。
(支那とは本来の中国の正式名称であり、現在の「中国」という言葉は、日本以外の国には存在しない。また一部では、支那という名称は差別用語とも言われているが、この解釈は誤謬(ごびゅう)であり、事実とは異なるものである。それは支那の語源を調べてみれば分かるだろう。ここでは中国という国と中国の人に対して敬意を払うべく、今後、支那の名称を表記していく。)
この三つの文字のうち、漢字以外は古くから存在する日本独自の文字である。
問題は、この三つの文字の中の「ひらがな」でもなければ、「漢字」でもない。
何故なら、これらの文字は「限定された言語の中でしか表現できない文字」だからである。
例えば、ひらがなだけを使って英語やドイツ語、フランス語等の西洋の言語(単語)を表記することが出来るだろうか。
また、当て字や漢字の熟字訓(じゅくじくん)だけで、同じく英語やドイツ語、フランス語等の西洋の言語(単語)を表記することが出来るだろうか。
試みに、日本独自の漢字を使った当て字や熟字訓だけで単語を列挙してみよう。(特に読みづらいものを拾って挙げてみた。)
外国名: 希臘、埃及、白耳義、西班牙、葡萄牙
動物名: 熊猫、海狸、長尾驢、猟虎(海獺・獺虎)
植物名: 素馨、鬱金香、仙人掌(覇王樹)
食べ物: 甘藍、鳳梨、甘蕉、扁桃、加々亜
その他: 瓦斯、洋灯、風琴、口風琴、自鳴琴
次に、答え合わせも兼ねて、これらの単語をひらがなで再度列挙してみよう。
外国名: ぎりしゃ、えじぷと、べるぎー、すぺいん、ぽるとがる
動物名: ぱんだ、びーばー、かんがるー、らっこ
植物名: じゃすみん、ちゅーりっぷ、さぼてん
食べ物: きゃべつ、ぱいなっぷる、ばなな、あーもんど、かかお
その他: がす、らんぷ、おるがん、はーもにか、おるごーる
そして、漢字・ひらがなに続き、今回の下手人と呼ばれているカタカナで、外来の単語を改めて列挙してみよう。
外国名: ギリシャ、エジプト、ベルギー、スペイン、ポルトガル
動物名: パンダ、ビーバー、カンガルー、ラッコ
植物名: ジャスミン、チューリップ、サボテン
食べ物: キャベツ、パイナップル、バナナ、アーモンド、カカオ
その他: ガス、ランプ、オルガン、ハーモニカ、オルゴール
如何だろうか。
このカタカナを用いれば、外国の言語である手強いはずの単語を、「何の違和感も無く」我が国の言語に変換出来てしまうのだ。
このような「便利かつ万能な文字」が、他の世界の国々に存在するのだろうか。
漢字の当て字や熟字訓を用いれば、外国語の単語が読みづらく、また書きづらくもなり、ひらがなを用いれば、外国の単語がまんがのような可愛らしい表記になってしまう。
見方を変えれば、ひらがなの場合は稚拙な表記にもなりかねない。
しかし、カタカナを用いれば、どのような外国語の言語であろうとも、先に述べたように「何の違和感も無く、日本語に変換出来てしまう」のだ。
故に、私はこの便利かつ万能なカタカナが、国内に外来語の普及を促した原郷(ある意味、元凶でもある)として、外来語の氾濫の下手人と表現したのである。
これをもう少し詳しく具体例を挙げて、国内におけるカタカナの威力を考察してみることにしよう。
東映が誇るヒーローのタイトルの秘密
まずは、次の画像を見て欲しい。
71年にテレビ放映され、子供達の間で絶大な人気を誇った藤岡弘(藤岡弘、)氏が演じる「仮面ライダー」である。
私達、昭和世代の子供達は、仮面ライダーというその名の響きから何の違和感も無くこのヒーローに憧れて育ったものだが、今改めてこの作品名を省みると「?」となる。
それは、ライダーという英語を日本語に訳すと「バイク乗り」ということになり、言葉を代えれば「運転手」になるからだ。
よって、作品名の仮面の次に翻訳した運転手を続けて表記してみると、「仮面運転手」になる。
言ってしまえば、「仮面ライダー」とは完全に日本語で表現すれば「仮面運転手」であり、要は「仮面を被った運転手」ということだ。
故に、先程私は「?」と述べたのである。
もし、仮面ライダーのタイトルを日本語で表記した「仮面運転手」でテレビ放映したならば、恐らくその言葉の印象から、当時の子供達から人気を得ることは無かったかもしれない。
言うまでもなく、仮面運転手ではヒーロー性が欠け、ダサいからだ。
しかし、仮面の後に英語のライダーをカタカナで持ってくればどうだろうか・・・。
「仮面ライダー」
その響きからして、それらしく聞こえるではないか。
要するに、日本語と英語を組み合わせると、カタカナの力(ちから)で作品名が格好良く聞こえるのである。
言葉の意味はともかく、その作品名の響きはとても素晴らしく、いかにもヒーローらしく聞こえるのは、さすが漫画界の大御所、石森章太郎(石ノ森章太郎)の感性の鋭さは凄みさえ感じる。
だから、私達昭和世代の子供達は、この石森(石ノ森)マジックにまんまと騙されたのである。(笑)
余談になるが、仮面ライダーは藤岡弘氏が撮影中に大怪我を負った事で撮影が続行できなくなり、急遽もう一人のライダーを登場させることになった。
後に、藤岡弘氏が復帰した事でライダーが二人になり、そのダブルライダーを「1号・2号」と呼ぶようになる。
これを日本語で改めて考察すると「運転手1号・2号」になるのだから、よくよく考えて見ると「?」となるのである。
このようなことを言うと、今は亡き石森(石ノ森)先生と仮面ライダーの制作に携わったスタッフの人達は冷や汗を垂らし、私にこう言うかもしれない。
「おい、空気読めよ・・・。」
東映が誇るヒロインのタイトルの秘密
これは、東映の他の作品名にも、全く同じ事が言える。
その典型例に、斉藤由貴主演の「スケバン刑事」を挙げることが出来る。
スケバンとは、今では聞くことはなくなったが、学生の不良少女を指す昭和の俗語である。
この作品名は、仮面ライダーのように英語が部分的に入っている訳ではないが、スケバン刑事を日本語として漢字で表記してみると、次のようになる。
「助番刑事」
はっきり言って、作品名としては余りにダサくて使い物にならない・・・。
ところが、この「助番」をカタカナで表記し、プロがタイトルのロゴを格好良くデザインしてみれば・・・。
このように、スマートかつ綺麗に極まる(きまる)のだ。
これで麻宮サキの決め台詞「てめぇら、許せねぇ!」が入れば、更に格好良く極まるではないか。
しかも、斉藤由貴が適役だったので尚更迫力があり、格好良く極まったのである。
如何だろうか。
これが、東映の作品名における「洗練されたカタカナのマジック」なのである。
要するに、カタカナを上手に活かすことが出来れば、「響きも良く、画にもなる手法」として成り立つのだ。
それが我が国の「便利かつ万能なカタカナという文字」なのである。
しかし、麻宮サキの「てめぇら、許せねぇ!」という台詞は、グレートリセットに加担し、国家国民を平気で裏切った「今の政府与党のクズ共」に浴びせてやりたい言葉ではないか。
そう思うのは、私だけであろうか。
外来語の氾濫、責任はインテリぶった学者達にもある
世界最強の文字、カタカナ。
最早、こう言っても過言ではないだろう。
いわば、それは日本人にとっての「ドラえもん的な存在」とも言える。
要するに、世界中のどの国の言語でもこのカタカナを使えば、自国の言語に変換できてしまうからだ。
それはドラえもんの四次元ポケットから出される魔法のような道具を、一つの文字の言語体系にしたようなものが、カタカナなのである。
だからこそ、国際化社会の現代において、カタカナはこの国内で驚異的な力を余すことなく発揮し続けてきた。
その結果が、今この国に見られる、外来語と呼ばれるカタカナ用語の恐ろしいほどの氾濫である。
このような外来語の氾濫は、他国では絶対見られない現象であろう。
それは他国ではカタカナのような何でも自国語に変換できる、これ程まで「便利かつ万能な文字」がみられないからである。
例えば、近年、イギリス国内においても、同じ英語圏のアメリカ英語と文化の影響を強く受け、従来のイギリス的な言語や文化が薄れつつあるという。
また、イギリスでは若者達の間で、イタリア語の挨拶「ciao(チャオ)」まで使われるようになったといわれている。
ciaoはイタリア語で「やぁ!」または「じゃあね!」というように、親しい間柄で使われる言葉である。
このように、海の向こうの国でも、外来語の言語と文化の影響は強く見られるようになっているようだ。
しかし、日本の場合はイギリスのようにアメリカ等からの影響だけではなく、言い方は悪いが節操がない故に世界各国から様々な影響を受け、外来の言語と文化の坩堝(るつぼ)のようになってしまっている。
現在のイギリスがアメリカ等の影響を受けるようになったとはいえ、流石に自国の独自性を失う程まで酷くはないはずである。
日本はこの「ドラえもん的な」便利かつ万能なカタカナの恩恵を受け、外来語の適応に成功し日本語化したものの、それによって「古くから培われてきた自国の独自性まで欠いてしまう」という嘆かわしい結果を招いてしまった。
恐ろしいのは、そのことについて「日本人自身が全く気付いていない」のである。
しかし、それは一概にカタカナの所為だけではない。
例えば、田原総一朗氏の「朝まで生テレビ」等を見てみれば分かるが、出演している専門家の諸先生方が、皆このカタカナ用語ばかりを積極的に使って話していることに気付く。
恐らく、彼らはインテリジェンス(有識者)である事を自認し、自身が頭脳優秀で非凡であると見せつけたいが為に、わざとカタカナ用語を使い、それらしく演出しているのであろう。
何故、学者共もとい学者達は、このような醜態をカメラの前で平気で晒すのだろうか。
それは彼ら学者達が、頭脳ばかりを鍛えることを意識して、精神、心を鍛えることを怠ってきたからである。
でなければ、積極的にカタカナ用語を使ってまで理屈を振り回すなどというくだらない行為はしないであろう。
早い話、彼らは精神的に幼いのだ。
それを大和民族本来の「大和心」で言い表せば、「賢しら」の一言に尽きる。
偽物・・・。
それが、彼らの真の正体である。
本物は自然体であり、偽物は不自然である
では、本物の有識者・インテリジェンスとは、どのような人物を指すのであろうか。
それは言うまでもなく、我が国の皇后陛下であらせられる雅子妃のようなお方と、作家・コメンテーターであり、元駐ウクライナ兼モルドバ大使の馬渕睦夫(まぶちむつお)氏のような方々である。
(皇后陛下はロシア語・ドイツ語・フランス語・スペイン語・英語・日本語の6カ国語を話される程、語学力に秀でたお方である。)
皇后陛下と馬淵氏は外国での生活も経験されており、語学も非常に堪能であるが、積極的に外来語を口にするような事はせず、至って自然な形で人々に話をされている。
それが本物の有識者であり、インテリジェンスの証左である。
本物とは、間違っても今の学者達のように自身を良く見せる為に賢しらな行為をすることはない。
そして懸念すべきことは、この偽物の学者達の悪影響を受けた若者達が、聡明なインテリを装う為に彼らの真似事をし、外来の言語であるカタカナ用語を積極的に使って理論武装をし、自らの聡明さを誇示するようになることである。
私は右寄りの人間として、彼ら日本の未来を背負う有望な若者達が、精神的な心の弱さから「若さ故の過ち」を犯さないことを、日本の神明に祈るばかりである。
(人は心が弱くなければ、自分を良く見せようなどという賢しらなことはしない。)
国際化の時代は「その国の独自性」が求められる
国際化の時代、世界各国の人種は「その国の独自性」が必要とされている。
私達人類が他国に旅行や留学に行くのは、その国の文化を享受する為であり、もし、行ったその国が外来の文化に強く感化され独自性を失ってしまっていたのなら、わざわざ海を越えてまで他国に行く必要が無くなってしまう。
例えば、ビール好きの人がドイツに旅行に行って、本場のビールを楽しみたいと思い注文したら、何故かアサヒスーパードライが出てきた。
それで、お店の人に「ドイツビールが飲みたいんですけど」と話すと、「近年ドイツでは日本のビールが人気で、もしアサヒがお気に召さないのであれば、ヱビスビールもありますよ。」という展開になったのなら、ドイツくんだりまで行って日本のビールを飲む必要が無い訳である。
その日本人の旅行者が呑みたかったのは、ビール大国としてのドイツビールであって、日本のビールではないのだ。
ドイツのビールと言えば、ドイツの歴代王室御用達のラーデベルガーのような有名なビールを言う。
または、日本人が中国拳法を学ぶべく中国(支那)に渡航し、中国拳法の道場の門を叩いたら、何故か中国人達が空手の稽古をしていた。
それで、そこの道場の人に「私は八極拳等の中国拳法を習いたいのですが。」と話したところ、「近年、中国では日本の空手が人気で、中国拳法は今は人気がないんですよ。もし、空手がお気に召さないなら、隣に合気道の道場があります。」
このような展開になれば、ドイツビールの展開と全く同じで、何の為に中国くんだりまで行ったのか、まるで分からない。
この国際化の時代、ドイツにはドイツの、中国には中国の「独自の歴史・伝統・文化があるから世界に貢献出来ている」のであって、これらの国々が独自性を失い他国と同化してしまったのなら、その国は「この地球上に存在する価値」を失ってしまうのである。
今の時代、私達人類は「多様性の中から多くの事を学ぶこと」を求められている。
それが霊的な進化に繋がっていくからだ。
これはあくまで例え話だが、この笑えないような展開を平気でしている人種が世界にはいて、それが何を隠そう、極東亜細亜の島国の我々日本人なのである。
ジョージの冷や汗が止まらない・・・。
では、架空の人物を使って、例え話を続けよう。
日本に興味を持ったイギリス人の若者ジョージが、日本文化を学ぶべく来日した。
そして、ある日本人の男性に「私は日本の神道と歴史を学びに来たのです。」と告げると、彼は「神道って何ですか?」と聞き返してくるではないか。
ジョージは額に汗を垂らしながら、「神道とは、神社で神をお祭りする日本独自の宗教ではないのですか?」と話すと、彼は「私は無宗教なので神社の事は分かりません。」と言うのである。
ジョージは話の展開を変え、「私は侍にも興味があるので、新撰組のことが知りたいのですが。」
彼は、その質問にこう返答した。
「新撰組とは聞いたことがありません。それはいつの時代のヤクザの事ですか。」
ジョージは額に拭いきれない程の汗を垂らしながら、ダメ元で更に質問を重ねた。
「新撰組とは、幕末最強の剣客集団のことを言うのではないのですか?失礼ですが、あなたは日本人の方ですよね・・・。」
このような日本人ばかりに遭遇するとしたら、いったい何の為にジョージは大枚をはたいてまで来日したのか、自分でも分からなくなってしまうだろう。
まるでイギリスのブラックジョークのような話になるが、このように今日のの日本人は、自国の歴史や文化にも無知な人達ばかりになってしまった。
これが「自国の独自性を失う」ということである。
このジョージのように他の外国人が来日し、日本の歴史や文化を尋ねても、今の日本人には何も答えることが出来ない人が多い。
それどころか、今の日本国内は西洋のアメリカやヨーロッパの文化で溢れかえって、古き良き日の「日本独自の文化」が衰退しているのだ。
もし大和民族の一人として自国に対し愛国心を真に抱いているのであれば、自国の歴史や文化に誇りを持っているはずなので、来日した他国の人から何を訊かれても、しっかりと日本人として一つ一つ丁寧に答えることが出来るはずである。
無知故に無知を誇る日本人
先の例え話の日本人ではないが、今の日本人は胸を張って「私は無宗教である。」と答える。
これは日本国内では通るかもしれないが、他の国々では「無宗教であること」は胸を張れるようなことではない。
それは何故か。
他国では、各自国で信仰されてきた宗教を通して倫理道徳を学び、人として育つ。
なので、日本人が国際社会において無宗教を自慢するという行為は、「私は倫理道徳を修めていません。」と胸を張って宣言していることになりかねない。
言葉を代えれば「私はただの野蛮人です」と言っているようなものだ。
宗教の件はともかく、私が日本人として気に入らないのは、この国がかつての「西洋キリスト教によって意図的な文化侵略を受け、外来の文化に染まったのではない」ということである。
つまり、外来の勢力によって、この国は異国の文化に染められていったのではなく、現代の日本人に愛国心が無く、無知故に自ら進んで諸手を挙げ、外来の文化を見境もなく取り入れてしまった。
その結果、本来失ってはならない「我が国の独自性までも失ってしまった」のである。
私は、決して外来の言語や文化が悪いと言っているのではない。
寧ろ、積極的にそれらの文化を受け入れ刺激を受けることにより、国はより豊かに発展する可能性を秘めている。
しかし、それは受け入れるといっても、兼ね合い・バランスの問題であって、我が国特有の独自性まで失う程、外国文化に染まってしまったのでは、ただの「亡国」である。
私達日本人は、この国際化の時代に、自国の独自性の欠如という問題を抱えたまま、これからの新時代に移行できるのであろうか。
否。
何処の国であろうとも、自国の独自性の欠如を抱えたままでは、新時代に移行することは出来ない。
何故なら、現在、人類は闇の勢力による人口削減を目的にしたグレートリセット下にあるからである。
よって、どの国もこの邪悪な計画を打破して生き延びるには、最後の最後まで愛国心を掲げて闇の勢力と戦い抜かなくては、自国の存続も人間の尊厳も守ることは出来ないからだ。
日本はその悪い証明として外来の文化に染まり過ぎ、主体性を失ったことで、このプランデミック下では、無知故に「ワクチンの多重接種」という愚行を冒してしまった。
私は今回、国内におけるカタカナ用語の氾濫という題材を掲げ、話を進めてきた。
その原因の一つは、「便利かつ万能な日本独特の文字カタカナ」に責任があり、もう一つは、自分自身を聡明な有識者に見せようとする「賢しらな学者達」に責任がある。
そして原因の三つ目は、現代の「愛国心を失った無知な日本人」達を挙げることが出来る。
よって、外来語由来のカタカナ用語による氾濫は、愛国心という主体性を失った「日本人の精神性の薄弱さ」がもたらしたことも指摘できる。
今の時代、私のような人間が「愛国心」という言葉を使うと、「戦前の国粋主義者のようだ」と今の日本では煙たがられるが、「本来、どの国の人であろうと、国粋主義的なものが自身の中に無ければ、即ち愛国心が無ければその国の人種とは言えない」のである。
まず、現在出来ることは、日本国内に氾濫する「カタカナ用語の整理」から始めて行くことが妥当だ。
そして次の段階として目指すべきは、我が国の大和民族としての「失われた大和心の復興」と、心から国を思う「愛国心の育成」であると言えよう。
今述べたような過程を経なければ、我が国日本は今後の国際化の時代において、未だ自国の独自性を失ったままであり、その状態では他の国々から必要とされないばかりか、「自国の尊厳すら守ることが出来ない憐れな後進国」と化すであろう。
(というよりも、もう既にこの国は後進国と化している。)
私達日本人は、そのような憂き目に遭わない為にも、今一度、大和民族としての本源に意識を向けて、大和の心に還るべきである。
弥栄。
付録:「白い炎」スケバン刑事エンディング(後半)から学ぶ80年代中期の西洋文化の蔓延
エンディング曲「白い炎」から四枚の写真を取り上げ、試みに海外の文化を省き、純和風な斉藤由貴を想像してみた。
斉藤由貴の後ろに西郷隆盛の像、横の壁画に浮世絵、口にしているお菓子もみたらし団子、または五平餅・・・。
そして浴衣、若しくは着物姿で古都鎌倉を散策・・・。
まさに、日本人としては理想的なアイドルとなる。
けれど、もしこの趣旨で彼女を演出したなら、当時の若者達にはアイドルとしての受けも良くなかったことだろう。
何故なら、余りにも渋くなり過ぎるからである。
恐らく、彼女がこの趣旨で受ける年齢層の方がいるとすれば、こたつでお茶をすすりながらテレビを見ている明治大正生まれの方々だと思う。
(80年代当時、戦前生まれのお年寄りの方はざらにいた。)
このように、現代日本から西洋文化の影響を取り除いてしまうと、ポップでキャッチーな要素が無くなってしまい、アイドルとしては画にならないということに気付く。
その結果、詫びというか寂びというか、地味に落ち着いた古風な印象がどうしても強くなってしまうのである。
なので、この路線で行くと、斉藤由貴はその「いぶし銀のイメージ」から、週刊誌にこう評されることだろう。
「詫び寂び系アイドル」と・・・。
そのように考えてみると、現代日本と西洋文化は既に切っても切れないところまで来ているのかもしれない。