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第40回:超秘教入門2|CARPET CRAWLERS 抜け出すためには・・・


神の祝福・イニシエーション

精神世界・・・。
もし、私が順風満帆に人生を過ごす事ができていたならば、この世界には間違っても来ることはなかっただろう。

恐らくこの世界に足を踏み入れた人の殆どが、何かしら長い人生の中で行き詰まりを感じて踏み入ったものと思われる。
この行き詰まりという言葉を他の言葉に置き換えれば、「困難を体験して」ということになる。

言い換えれば、人間、真の人生の困難を体験しなければ、精神世界に意識を向けることは無いと言えるからである。

私もその例外に漏れず、「神の戯れか」気が付いたときには社会の中でどうにもならない程の苦境の大海に沈んでいた。
それを一言で言えば、私は社会の中で「負け組」と言われる立場に転落していたのである。

一度社会で転落すると、ちょっとやそっとのことでは巻き返しがきかないものだ。
このようなときは努力すればする程逆に深みに嵌まるもので、現状は決して良くなるものではない。

それは蜘蛛の巣に捕らえられた昆虫達と同じで、もがけばもがく程「困難」という糸は自身に絡みつくものである。
だが、当の本人はもがいて足掻いている事に気付くことができない。
それを当人は「私はこんなに努力をしているのに・・・。」と思っているのだ。

そして最後に、もがき足掻く事に疲れ、遂に白旗を揚げることになる。
そのとき初めて、自分が今までしてきた事は努力ではなく、「ただ単にもがき足掻いていただけ」であることに気付くのである。

こうなると自分の魂から見たら占めたもので、物質世界から霊的な世界へ意識を向ける機会を得たことになる。

これを秘教の世界では「イニシエーション」といい、人が霊的な目覚めの過程に入った「神の祝福」と捉えるのである。
即ち、霊的な準備を迎えることができるようになった者が歩む道のことを言うのである。

恐らく私のnoteの記事を読まれている方々も、このような霊的な過程に置かれているのではないだろうか。
でなければ、一円の足しにもならない霊的な話には意識を向けることはないだろうから・・・。

The Lamb Lies Down on Broadway

74年、GENESISがプログレ時代にリリースした
2枚組のコンセプトアルバム、それがロックの
名盤、「眩惑のブロードウェイ」である。

リーダーでボーカリストのピーター・ガブリエルは
このアルバムを最後にバンドから去って行く。

眩惑のブロードウェイの内容は全編ピーターの
作詞によるもので、プエルトリコの少年レエルが
自身の精神世界に迷い込み、様々な人々と出会い、
多くの体験を積んでいくというものである。

そして最後に、彼は激流の中で
自身の兄であるジョンを助けようとするのだが、
手を伸ばした先の兄の姿は、振り返ると
実は「自分」だった・・・という物語だ。

内容は非常に哲学的であるため、凡人の私には
難解であるが、右脳的な感性で読み解けば
この物語は「自身の精神の解放」を歌っている
ものであることが分かる。

即ち、このアルバムはロックで表現された
イニシエーションの過程を描いているのである。

人が求めるもの、魂が求めるもの

ここで私の語る秘教の話に耳を傾けるということは、物質世界の社会の中で負け組になった者の話を聞くということである。

なお、私は社会の中で負け組になったが、自身の人生の中で負けた訳ではない。
でなければ、霊的な話などをここで語ることはないであろう。

「引き寄せの法則」で言えば、もしあなたが物質的に豊かになろうと思うなら、このような人間の話に耳を傾けるべきではない。
何故なら、人生における「周波数」の話に関わってくるからである。
抽象的な言い方になるが、これを踏まえた上で本文を読み進めていただきたい。

秘教の世界に足を踏み入れるということは、従来の人間の感覚を変えていかなくてはならないことを意味する。

つまり、人間の「意識」を変えることであり、それは物質世界から霊的な精神世界に意識を向けることである。

ここで問題になるのが、私達人間は物質世界で暮らしている生命体なので、どうしても「自身の生活の中で衣食住を満たそうとすること」である。
そのため良い家、良い車、良い家族といった物質的に恵まれた環境作りを求めるのだ。

少なくともこれらの条件が整えば世間体が良くなるので、端から見てもその家の家族は裕福な人達と思われ、精神的にも満足を得られるのである。
逆に言えば、現在の社会ではこれらの物質的な条件が整わなければ、貧しい憐れな存在として蔑まれて見られることになる。

まず「霊的な世界を志す」ということは、今述べた良い家、良い車、良い家族といった物質的に恵まれた環境を手放すことを意味する。

何故なら、それは地上世界で暮らす肉体人間が自身の生命を守るために必要とするものであるが、魂はそれらのものを重要なものだとは見なさないからだ。

そのため「真に」霊的な世界を志すと、まず失うものは自身の財である。
財が無くなれば、物質的に良い家、良い車、良い家族といった生活条件を即失うことになるからだ。

魂から見て、これらのぬるま湯に浸かったような生活環境は非常に邪魔なものであり、霊的な目覚めの妨げになるものだからである。

もし、それらのものが無くなれば、人は物質的なものに縋ることができなくなり、必然的に精神的、霊的なものへと意識が向かうようになる。

イニシエーションの課程をよく表わしているのが、
旧約聖書の「ヨブ記」である。詳細を語ると
長くなるので、概略は以下のようになる。

善人で信仰心の厚い金持ちの
「ヨブ」という人がいた。
ある日、悪魔に唆された神様は、
ヨブの信仰心を試すべく、彼の人生上
必要な全てのものを奪うのである。
そしてその受難をヨブは耐えに耐えてきたのだが、
遂に耐えきれず伏せってしまう・・・。
そしてヨブは・・・。
それが旧約聖書のヨブの受難の物語だ。

もし、あなたが霊的な道を真に志すならば、一般人としての幸せを放棄することを覚悟しなければならない。

このヨブ記のように、神は地上世界で霊的な準備ができた者に送る祝福とは、「財を容赦なく奪うこと」である。

財を奪うのは、至極簡単である。
それは霊的に準備ができた者の「健康」を奪うのだ。
その健康を病気で奪われるのか、事故で失うのかは人によるだろう。
何にせよ、健康を失えばその人は働けなくなるので、職場にいることができなくなる。
そうなれば、愛する妻子も養うことができなくなるのだ。

霊的に進化が求められるとき、神(または魂)は何を人に求めるのか。

それは孤独である。
孤独にならなければ、人は賢者になることができないからだ。

かつて2500年前、インドの地でゴータマ・シッダールタは妻子を捨てて、孤独な求道(ぐどう)の道に旅立った・・・。
このゴータマ・シッダールタとは、誰もが知るお釈迦様のことである。

このような話を聞いても尚、あなたは秘教の話に意識を向けることはできるであろうか。

孤独の道を辿って・・・

これらの人生の断捨離が行われれば、最早世間体を気にする必要もなくなるので、長年被ってきたペルソナという仮面も自ずと剥がれる。

そこにいるのは、無様で弱くて情けない惨めな自分が一人佇んでいるだけである。
問題はその「憐れで孤独な自分をどう受け入れるか」ということだ。

どうしても人間には、自尊心というものがある。
自身が世間体も保てない程落ちぶれたともなれば、そう易々と受け入れられるものではない。
故に自身を宥めるため、自身の心を誤魔化し取り繕うのだ。

そのため人が起こった問題に正面から向き合うには、個人差はあるもののある一定期間の時間を必要とする。

それが葛藤の期間である。
その葛藤を経なければ、人は次の段階には進めないのだ。

次の段階とは、不幸にも失った自身の社会生活を取り戻し、再び人生を軌道に乗せる段階である。
ここで人は通常の2倍3倍の努力程度では、元の生活を取り戻せないことに気付く。
それ故に、元の生活を取り戻すべく血相を変えて死に物狂いの努力をすることになるのだ。

これは人間として現実的には正しい行動ではあるが、霊的に見たら完全に間違った行動である。
前者は人間から見た視点で捉えているが、後者は魂から見て捉えた視点である。

この場合、現実的な行動としては正しくても、殆どの場合が不発に終わる。
理由は、魂から見て元の生活に戻ってしまったら、その人は人間としてさほど成長することはないからである。

人生が破綻したということは、その人の魂が今までの平坦な人生ではこれ以上の進歩向上が望めないと判断し、人生の新たな舵取りを求めているのだ。

それを人間の視点で見て強引に力尽くで元に戻そうとしてもそれは不自然なことであり、魂が与えた自然の流れに逆らう事になってしまう。
それでは必死になっていくら努力したところで、望んだ結果は得られないだろう。
何故なら、先に述べたように魂はあなたを潰すために「安住した生活」を敢えて破壊したのだから・・・。

鏡|アルバート・シェバラー・タイラー(1914年)
「鏡」
どこの家庭にも1枚は必ずあるはずだ。
私達は毎日、その鏡を前にして
いつも当たり前のように覗き込んでいる。
けれど、そこに映し出される姿は
本当の自分自身なのだろうか・・・。

鏡は人の姿を写しはするが、
その人の心の中まで映し出すことはできない。
人はいつしか社会の中で生きていく上で、
「ペルソナ」という本来の自己とは違う
偽りの仮面を被って生きていくようになる。

この仮面が剥がれるときは、
決まって人生が崩壊したときである。

そのときあなたは孤独になり、
賢者の道を歩んでいるのだ・・・。

シヴァ神の顕われ|破壊から創造へ

この過程を経た人は、恐らく廊下の片隅で干からびている雑巾のような姿になっていることだろう。
そう、その人は必死の努力が報われず、大変疲弊しているのである。
哀しいことにその人の努力は徒労に終わったのだ。
このとき誰もが白旗を揚げる。

そして次の段階に行き、その人が過去を省みなくなったときに思いがけない事が起こる。
できることは全てしたがいずれも上手く行かず、疲れ果て諦めたとき、人は力が抜けるのだろう。
そのとき不意に、「直感的な閃き」が訪れるのだ。

この直感的な閃きが訪れるまでは、その人は生活を取り戻すのに死に物狂いになっているので、その人の意識は社会という「自身の外側」へと向かっているのである。

人生、霊的な意味において破綻を来した場合、意識を外に向ければ向ける程上手くは行かず、その逆に「自身の内側」即ち、心に意識を向け内省すると、気付きもしなかったことに気付くようになる。
このとき、その人は孤独を通して自身と向き合い、賢者になったのだ。

これが人の身に起きる初歩的なイニシエーションの課程である。
インドのヒンドゥー教では、この破壊から創造への課程を「宇宙の法則」として捉え、神聖なシヴァ神の顕われとしている。
人間も大宇宙の一部分であり、小宇宙であるのだから、この破壊と創造の過程が人生に起こることは必然であると言えよう。

その課程を経て「汝自身を知る」

以上述べたように、人は崩壊期を体験して初めて賢者の領域に足を踏み入れるのである。
そのときには既に社会的なペルソナは剥がれ、本来の自然な自分自身を取り戻していることだろう。

本来の自分に立ち返ることができたならば、その人は自身の価値を自身で認めることができるので、価値基準を他人に委ねることはしない。
要するに、人の目を気にすることはなくなるのだ。

他人とは読んで字の如く「他」の人であり、身内ではない。
言ってしまえば、他人とは通りすがりの通行人と同じであり、ただの一過性の人間関係である。

そのような親しくもない人から例え誹謗を受けたとしても、自分とは何ら関係のない人なのだから相手にする価値も無いのだ。
(もし、これが親しい家族や友人からの苦言であればまた別の話だが。)

孤独を通して賢者になるということは、「自身を見つめ、深く知ること」である。

自身を知ることは、「自分にとって、本当に何が必要で大切なのか」を知ることでもある。

霊的に進化するということは、「人が生きていく上で無駄を省き、合理的になること」を言うのだ。

これは崩壊期という人生の危機を体験し、霊的な方向へと意識を向ける形式になるが、言うまでもなくイニシエーションの課程は人それぞれであり、必ずしもここで述べられたような課程を辿るとは限らない。

しかし、人がイニシエーションを体験することになれば、多かれ少なかれ先に述べたような状態に近い形で起こるのではないだろうか。
何故なら、霊的な意味において人から健康を奪ってしまえば、自然に財を失うのだから・・・。

抜け出すためには・・・

以上述べてきた形式は、自分の意志とは関わらず魂の導きにより起こされた避けられないイニシエーションということになる。

けれど、自分からイニシエーションを求め、人生の崩壊を招いてしまう可能性もあるのだ。
但し、この場合、本人は自らイニシエーションを求めていることに全く気付いていない。

それは精神世界の本に興味を持ち、精神世界がとても綺麗な世界だと勘違いし、次から次へとその手の本を読破する習慣を持つことだ。

この場合は、スピリチュアルの本に説かれている美辞麗句に意識が向き、霊的な実践を疎かにしていることが多い。
けれど、本人は自身が趣味(遊び)でスピリチュアルをしていることに気付いていないのである。
(少々辛い言い方になるかもしれないが、これは事実である。)

宇宙は「知り得たことは実践する」というのが暗黙の法則だ。
その本の中に説かれている素晴らしい綺麗事を、自身の人生の中でいずれ実践していかなくてはならなくなる。
もし本人にそのような気が無いのであれば、これを世間一般的には「墓穴を掘る」と言うのだ。
要するに、精神世界は遊びや趣味で来れる程、甘い世界ではないのである。

これが引き寄せの法則であり、自身が意識した周波数の結果なのだ。

なので、物質的に豊かになろうと思うなら精神世界の本などは読まずに、自己啓発や成功哲学の本を読破して引き寄せの法則を日々の生活の中で上手に活用された方が身のためである。

精神世界の人間がこう言っては何だが、ラマナ・マハリシのような高度なインドの聖者の本などを読み感銘を受け何度も読み返すようなことになれば、この物質次元の世界では末路憐れになるのは時間の問題だ。
なんと言っても、腰布一枚で碌に何も持たず暮らしている無欲な方なので、およそ物質的な幸福とは縁が無い人なのである。

もし、このような言葉で神聖な聖者様を表現することが許されるのなら、「いっちゃってる人」に意識を向けてはいけないのだ。
あなたが物質的な幸せを心から求めるならば・・・。
(例えるなら、ラマナ・マハリシの愛読者でありながらも年末ジャンボを買いに行くような人のことだ。)

けれど、あなたが真に精神的且つ霊的な道を志すならば、ラマナ・マハリシが語る一つ一つの言葉は胸を打ち、魂が向かうべき本来の正しい方向に導いてくれるであろうことは間違いない。

よって周波数について言えば、物質的な幸せを求め霊的な世界に意識を向けても、霊的な世界は周波数領域が高いので物質的な恵みには繋がらないのだ。

なので、精神的安寧や霊的な歓喜を求めるのなら、どうしても霊的な世界に意識を向けなくてはならない。

この周波数の違いを理解することが精神世界に意識を向けるということであり、ひいては秘教の科学を学ぶ準備段階に入るということである。

問題は「あなたには、その覚悟ができているのか?」ということだ。

今回の話を総括すれば、私達人類は物質世界の因果から抜け出すためには、霊的な世界に意識を向けなくてはならない。

即ち、「私たちは抜け出すためには入らなければならない」ということである。

推薦動画1:KTstiletto 洋楽和訳さんの素敵な和訳CARPET CRAWLERS - Genesis 1974 (lyrics) 和訳

CARPET CRAWLERSは
「眩惑のプロードウェイ」に収録されている
GENESISの中の有名な曲の一つである。

この曲の印象的なサビの言葉は
"We've got to get in to get out"
「私たちは抜け出すために入らなければならない」
という部分だ。

この曲の作詞をしたのはピーター・ガブリエルだが
当時、ピーターは他のメンバーと不和となり、
この2枚組のコンセプトアルバムを最後に
自らが結成したバンドを去る事になる。

この頃のピーターの心境を考えて
「眩惑のプロードウェイ」に耳を傾けると
ピーター自身が一種のイニシエーションを
体験している事に気付いていたのではないか。
でなければ、プエルトリコの少年レエルを
登場させたイニシエーションの物語などは
書き上げなかっただろう。

もしかしたら、この少年レエルは当時の
ピーター自身を顕わしているのかもしれない。

推薦動画2:Genesis - Carpet Crawlers (Official Audio)

GENESISは私が高校2年の17歳から愛聴している
プログレッシブ・ロックバンドの一つである。

GENESISのデビュー当時は、ビージーズ風の
曲のポップバンドとして知られていたが、
セカンドアルバムのトレスパスから
路線をプログレバンドに変更した。

プログレとは今では余り聞き慣れない言葉かも
しれないが、60年代後期から70年代前期までは
世界的に大流行したロックのジャンルである。

一般のロックでは1曲で3分から5分ぐらいの長さが
定番であるが、プログレになると1曲10分や
20分は極当たり前の長さである。
例えばGENESISの”Supper's Ready”という
曲になると、1曲で23分間だ。

プログレは知的なロックなので、その内容は
文学、哲学、社会的なテーマや物語の世界などを
表現しているので、どうしても従来のロックよりも
音の構成が複雑になってしまう。
そのために詞の世界を表現していく上で、
どうしても1曲が長くなってしまうのだ。

有名なプログレバンドとしては、
PINKFLOYD、YES、KING CRIMSON、
EMERSON, LAKE & PALMER(ELP)などである。
日本では、この4つのバンドにGENESISを加えて
「プログレ5大バンド」と言われてきた。

プログレ時代のGENESISの世界観はちょっと怪奇な
幻想文学の世界を描いているので、漫画や小説等を
創作している感性の鋭い10代の若者達にとっては、
きっと想像力を駆り立ててくれるに違いない。