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第52回:超秘教入門14|Seventh Son of a Seventh Son カルマの神々


目には見えないエネルギーの世界

前回、前々回と二度に亘って、オカルティズムの基礎となるカルマについて書き綴ってきた。
それが以下の二つの記事である。
第50回:超秘教入門12|Sabbath Bloody Sabbath カルマは影の如く・・・
第51回:超秘教入門13|Neon Knights カルマの仕組みを学ぶ

どちらの記事も読んで字の如くカルマについて説いており、内容としてはやたら重苦しいので、正直読んでいて楽しいものではない。

現在の人類は、近代西洋の産業革命から左脳偏極し物質文明に埋没したため、生命体として感覚が大変鈍くなってしまった。
それによって、感覚の鈍さから気づかぬところで他に迷惑を掛けカルマを積んでいるものである。

現代人は「目には見えないものは存在しない」という理屈が潜在意識にまで染み込んでしまっているため、古代人が当たり前のように感じていた自然霊や磁場の波動、自身の周囲に存在する波動に気づくことができなくなってしまった。
(秘教では「エネルギーは思考に従う」という。即ち、成功哲学のナポレオン・ヒルがいう「思考は現実化する」と同じものである。よって、「無いと思えばあるものも無くなってしまう」ことを意味し、偽薬などのプラシーボ効果もこの範疇はんちゅうに入る。)

波動とは、広義の意味では「この宇宙に全般的に存在するエネルギー」のことを指すが、狭義の意味では「この大気中に存在するエーテル」、即ち「気」のことを指す。

私達、宇宙に存在する生命体は常に何らかのエネルギーに囲まれ、その影響を受けながら日常生活を送っている。

例えば、「念力」とは人が心の中で念じることによって生じた思いの力であり、それが意識的にある対象物に向けられた時、矢のように飛んでいく目には見えないエネルギーを意味する。

では、ここで「目には見えない念力を体感する実験」をしてみよう。

今、私の手元に金の十字架のネックレスがあるが、テーブルに右肘をついて固定し、三本の指でチェーンの先を掴み十字架のネックレスを垂らす。

そして、金の十字架に意識を向け、「この十字架は私から見て前後に動く」と心の中で軽く念じる。
(逆に強く念じると念の力が拡散し、対象物が廻らなくなる。野球のピッチャーがりきみすぎるとストライクが入らなくなるのと同じ原理である。)
すると、時間の経過と共に十字架のネックレスは前後に徐々に動き出すのである。
また、前後だけではなく、今の要領で自分から見て左右に揺り動かすこともできる。

更に、この前後左右に動いている勢いを利用して、「時計回りに廻れ」と念じれば徐々に右へ回転していくようになる。
もちろん、この逆の回転の左回りも同じ要領で可能だ。

これは人が心の中で思って生じた念力のエネルギーなので、秘教でいう「アストラルのエネルギー」になる。

要するに、心の中で思ったことは目には見えないが、念力の作用として「目に見える物質に影響を与える」ことが理解できる。

この念力の実験は誰にでもできるので、もし男性でネックレスがなければ、五円玉や五十円玉に糸を通して同じような形で実験することも可能である。
(なお、人の念も一種の電気のようなエネルギーなので、慣れていないうちは糸ではなく金属のチェーンを使って試した方が反応しやすいかもしれない。)

但し、これは軽いネックレスだからできるので、もし太い鉄の鎖に巻き付けた5~6㎏のダンベルであれば重すぎて一般人の弱い念力では動かすことはできない。
できるとすれば、山岳修験道を開いた役小角えんのおずぬや、密教を極めた弘法大師空海のような念力の強い大行者ぐらいであろう。

このように私達は気づいていないだけで、日頃から目には見えない多くのエネルギーに取り囲まれ生活しているのである。

ここまで読まれて、察しの良い読者の方は「第50回:超秘教入門12|Sabbath Bloody Sabbath カルマは影の如く・・・」に記された大変厄介な生霊の話が脳裏にぎったのではないだろうか。

そう、今述べたように、人の念の力は物質に影響を及ぼすこともできるのである。

「念」
それは人の心の中で生じたエネルギーである。
この「念」は、発した人の思いによって、
善いものと悪いものに分かれる。

そして相手から念を送られた人は、肉体、精神、
運気、いずれかに何らかの影響を受ける。

もし、人から怒りを買えば恨みの念を受け、
また異性から想われた場合はその思慕しぼの念を
受けるが、どちらにせよ相手から発せられた
生霊であることには変わりはない。

ここで私が体験した、色恋に関する
生々しい「生霊の話」を二つ紹介しよう。

一つは、私が高校二年生の時の出来事で、
クラスのある女子から告白され、
それを断った瞬間に目の前で手首の脈を切って
自殺されそうになった事がある。
以来、その日からその女子は酷いうつになり、
自殺未遂を何度も繰り返すことになった。

授業中、視線を感じるのでその方向に
目を向けると彼女が未成仏霊のような目つきで
こちらをじっと見つめている。

このような生活が数ヶ月ほど続き、学校内でも
支障を来す問題になり、この間私は、
深夜寝苦しくて仕方がなかった・・・。

(これは込み入った話なので事の詳細は省くが、
私は潰れる寸前まで追い込まれ、また本人の
命にも関わることであり、彼女の母親に事情を
話し、助けを求めなくてはならなかった。
今思えば、彼女の気持ちに対し、
もう少し繊細な気遣いができていたなら
上手く対応できたのかもしれない。)

もう一つは、私の同い年の友人で二十二歳の時の
出来事である。彼は、年上の霊媒の女性に
見初められ、非常に困って私に相談してきた。

やはり「日々の生活の中で息苦しい」と言うので、
私は冗談めかしてこのように返答した。
「真夜中、部屋のTV画面に向かって写真を撮って
みたら彼女が映るんじゃない?(笑)」と。

数日後、彼は真夜中にブラウン管のTVに
向かってカメラのシャッターを切り、後日
現像された写真を私に見せてくれた。

「きゃーっ!」
そこには例の霊媒の女性の顔がうっすらと
映っているではないか・・・。

これが人の念であり、執着心が強くなればなるほど
アストラルエネルギーの質料が強くなり、
その結果、「異性から思われた人は
寝苦しさや息苦しさなどを感じる」のである。

シークレット・ドクトリンに記されたカルマの神々

波動は「周波数または振動数」という言葉に置き換えることもできるが、要はエネルギーを表す言葉である。

それを突き詰めれば、この宇宙全体はエネルギーの世界なので、秘教でいう「人が積む善悪のカルマ」も人生の中で積み重ねられたプラスとマイナスのエネルギーということになる。

前回の記事、「第51回:超秘教入門13|Neon Knights カルマの仕組みを学ぶ」ではカルマの仕組みについて学んだが、その中にカルマの生成に関する「サンチタ、プラーラブダ、アーガーミ」という一連の過程を経て、「人が過去世で積んだカルマによって来世の幸不幸が決められる」ことについて考察した。

では、いったい誰がこのような「各個人のカルマの調節」を行っているのだろうか。

西洋史上最大の女性オカルティスト、ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキーは、その著書シークレット・ドクトリン 宇宙発生論《上》の206、210、211頁の中で、カルマの神々の存在について説いている。

シークレット・ドクトリン 宇宙発生論《上》
H・P・ブラヴァツキー著
田中恵美子 / ジェフ・クラーク訳
宇宙パブリッシング

このシークレット・ドクトリン 宇宙発生論《上》に記されているカルマの神々は、日本神道的に言うと四柱存在し、それは仏教の神「帝釈天たいしゃくてんに仕える四天王」であるという。

四天王とは、この世界の四方即ち東西南北を守護する神であり、多聞天たもんてん持国天じこくてん増長天ぞうちょうてん広目天こうもくてんの四柱の神々を指す。
なお、多聞天はまたの名を毘沙門天びしゃもんてんといい、日本では戦国武将の上杉謙信が信仰していたことで知られる有名な神である。

神智学は、十九世紀に「東洋の叡智」を西洋から発信していくことを試みた霊学であるが、この場合の東洋とはインド、チベット系の教えを指すので、ここでは日本で使われている従来の四天王の神名と共にインドのサンスクリット名も併記し、表にすると以下の表1になる。

表1:四天王のサンスクリット名と守護方位

では、シークレット・ドクトリン 宇宙発生論《上》の206頁で、カルマの神々についてどのように記されているのだろうか。
それを一部抜粋し、要約してみよう。

四人の四天王は、ディヤーニ・チョーハンの大王達であり、それぞれ地上界の四正しせい(東西南北)の各一方位を支配する。
即ち、彼らは東西南北の自然界の力を支配する神々、あるいは天使達である。
各方位からもたらされる力は、それぞれ独特な神秘的性質を有している。
これらの高次元存在達は、カルマとも関わっている。

シークレット・ドクトリン 宇宙発生論《上》の206頁
一部抜粋要約

ここで「ディヤーニ・チョーハン」という言葉に注目して欲しい。

普段聞き慣れない言葉だが、それもそのはずで秘教のみで使われる専門用語だからである。
秘教では、ディヤーニ・チョーハンは宇宙の神々の総称であり、彼らはこの宇宙を運営管理する霊的存在達のことを指す。

次に注目して欲しいのは、「彼らは東西南北の自然界の力を支配する神々、あるいは天使達である」の「天使」という言葉だ。

天使はディヤーニ・チョーハンとは違って、秘教をしていない人でも知っている言葉である。
けれど、この天使が具体的にはどのような存在を意味しているのかは、秘教などの霊学をしていなければ分からない。

天使とは、秘教的には「デーヴァ」のことを指す。
デーヴァとは「自然霊」のことをいい、簡単に言えばおとぎ話の中に出てくる精霊や妖精のことを意味している。

彼らは私達人類の隣人ではあるが、主にアストラル界に生息している生命体なので人間の目に映じることはない。
彼らはアストラル体なので非常に敏感であり、物質性が強く鈍感な人間達が発する騒音やストレスなどの悪想念を非常に嫌い、けがれた人間社会を避ける傾向が見られる。

また彼らは意図的に自身の振動数(周波数)を下げて、人間の前に姿を現すこともある。

その場合は、好意的な場合と悪意に満ちた場合との二つのパターンがある。
前者は西洋の伝説にあるように田舎の農夫を手伝ったり、後者は悪戯いたずらで人間に催眠術を掛けて幻覚を見せ馬鹿にして喜ぶ、といったものである。
後者の例は、今でも登山者が山の中で迷い同じ場所をぐるぐる歩き回るといった場合がこれに当てまるだろう。

これは自然霊の低い存在の話であるが、シークレット・ドクトリン 宇宙発生論《上》の206頁で説かれている天使は、もっと高度な霊的段階に達した存在のことを指している。

要するに、デーヴァといわれる自然霊も人間と同じで、霊的に高いものから低いものまで様々に存在する。

さて、シークレット・ドクトリン 宇宙発生論《上》で述べられている「デーヴァ」が高度な自然霊であることまでは理解できたが、ここで一つ疑問が残る。

それは、この著書の中での四天王は「自然界の四正(東西南北)を支配する地上界の守護神」であるが、今日本の仏教で説かれている四天王は天部てんぶの神として現世利益をもたらす存在であることだ。

厳密には、日本で一般的に知られているのは四天王のうち有名な毘沙門天だけであり、その他の三天王はほぼ忘れられている。
また、四天王を配下に置く帝釈天たいしゃくてんも日本では現世利益の信仰の対象である。

具体的に挙げれば、毘沙門天信仰は奈良県の信貴山、帝釈天信仰は東京都の柴又帝釈天が知られており、多くの人々が物質的な現世利益を求め、毎年これらの仏閣に参詣する。

毘沙門天にせよ帝釈天にせよ、仏教で信仰される天部の神は基本的に現世利益をもたらす人格神であり、信仰にあつい者が天部の神に日々祈りを捧げればそれに応じて願望を成就してくれるので、人間にとっては大変有り難い存在である。

また、天部の神は人格神なので、信仰者から思われれば思われるほど自身の力を増すことができる。

言ってしまえば、天部の神と信仰者は、ある意味「霊的な相互利益をもたらす関係」として成り立っている。
(一部の行者からは、毘沙門天と帝釈天は他の天部の神とは違って、物質的な現世利益をもたらすのではなく、修行者を成道じょうどうさせるため厳しく教え導く神々である、ともいわれている。)

しかし、ブラヴァツキーのシークレット・ドクトリン 宇宙発生論《上》の206頁では「四天王は東西南北の自然界の力を支配する神々である」と記されているので、仏教でいわれる人に現世利益をもたらすような存在ではなく、本来はより高度な霊的段階の神々であることがうかがえる。

ここで天部の神の話がでたので、参考までに仏教の仏尊ぶっそんの霊的な四つの階級を以下に記そう。

表2:仏尊の四階級

このように、シークレット・ドクトリン 宇宙発生論《上》は「カルマの神々は四天王である」と説いているが、では、いったいどのようにして人の善悪のカルマが決められるのであろうか。

秘教では、「進化に繋がる行為」が善のカルマになり、「退化に繋がる行為」が悪のカルマになるという。

これは我が国の古神道でも同じで、「産霊むすびに繋がる行為」が善であり、その逆が悪であるとされている。
産霊とは、現代風に言えば「生産」という意味であり、発展性があるものを産霊というのである。

なお、余談になるが、神仙道ではこの産霊のことを「化作かさく」という。

星への問いかけ(1901年)
カール・ヴィルヘルム・ディーフェンバッハ

「デーヴァ」
それは人類とは進化形態が異なる存在である。

彼らと人類の違いは、デーヴァの敏感な感覚機能は
感じることによって進化していく生命体であり、
それに対して、人間は緻密な思考機能を有しており
考えることによって進化していく生命体である。

この二種族の霊的な機能の違いから、進化の霊統が
分けられ、次の二つの方式が成り立つ。

デーヴァの「感じる=自身の意識が外側に向かう」
人間の「考える=自身の意識が内側に向かう」

では、この二つの方式から、
どのような違いが生じてくるのであろうか。

デーヴァは、感じることに重きを置くため、
「自己意識を持たない存在」である。
即ち、人間とは違い、「哲学的な自己認識に
よる意識の拡大」に至ることはない。
故に、霊的進化の速度は非常に緩やかである。

それに対して、人間は考える力が強く働き、
人生上常に苦悩が伴うが、それにより
「意識が拡大し哲学的な自己認識が深まり」、
霊的進化が非常に速まるという利点がある。

よって、デーヴァにはイニシエーションは
ないが、人間には思考力があるため、
痛みが伴うイニシエーションが存在する。

けれど、この違いはまた別の働きをもたらし、
人間の「内に向かう力」とは逆の、デーヴァの
「外に向かう力」は、高度な波動の作用から
自然界の成長などを助け、この地球上に
大いなる恩恵をもたらしてくれている。

秘教の世界では、来たるべき新時代に、人類は
デーヴァの強力なヒーリングエネルギーを借りて、
この地上界のあらゆるやまいを癒やすことができると
言われている。

なお、このカール・ヴィルヘルム・
ディーフェンバッハの幻想的な絵画は、
ドイツのライン川の岩上に姿を現わす美しい少女の
精霊ローレライを描いたものである。

右手の道、左手の道

では、先の表2で仏教における「仏尊の四階級」を取り上げてみたので、キリスト教神学で示される西洋のデーヴァ、即ち「天使の九つの階級」も以下に挙げてみよう。

表3:天使の九階級と種類

このように洋の東西を問わず、各宗教の背後には高度に進化した霊的存在が控えており、その道を修める者達を陰から導き守護していることが理解できる。
これらの宗教の仏尊や天使達は、光の勢力の一部であることは言うまでもない。

この宇宙は、陰陽の法則で成り立っている。
光の勢力が存在するとすれば、逆に闇の勢力も存在する。

その霊的な光の勢力と闇の勢力に追随する人々もおり、秘教の世界ではそれらの人々を「右手の道」と「左手の道」と呼ぶ。

右手の道は、人類の霊的な進化と地上界の繁栄に自らの人生を捧げる「愛」の道を指しており、それに対して左手の道は、人類を霊的に退化させ地上界に破壊をもたらし、自らの人生を欲望のままに生きる「あい」の道を指している。

即ち、右手の道は「正道」、左手の道は「邪道」である。

また、前者の道を歩む者は光の勢力と繋がり、後者の道を歩む者は闇の勢力と繋がっている。
なので、前者が霊的なエネルギーを使用する場合は、白魔術として病気や怪我の治療に使われ人に活力を与える。
後者が霊的なエネルギーを使用する場合は、黒魔術として眩惑や呪殺に使われ、人を破滅させる。

これはどちらも霊的な道を歩む者に対して当てまる陰陽の道であり、普通に日常生活を送っている一般人には当て嵌まらない。
 
なお、秘教では光の勢力をホワイトロッジといい、闇の勢力をブラックロッジという。

補足を加えると、ホワイトロッジは一般的にハイラーキーといい、日本語では聖白色同胞団というが、このハイラーキーの本部はヒマラヤ山脈を越えたチベットまたは中央アジアにあるので、トランスヒマラヤ同胞団などともいわれる。
ブラックロッジの別の名称はロード・オブ・ダークフェイスといい、日本語では暗黒の者等というが、ドゥグパという場合はシッキムやブータンなどチベットの国境付近に多い悪徳ラマ僧、即ち黒魔術師達のことをいう。

ここまでは光の勢力に属する仏尊や天使達について触れてきたので、ここからはその対極に位置する闇の勢力について考察してみよう。

聖母子と洗礼者聖ヨハネ(1882年)
ウィリアム・アドルフ・ブグロー

世界各地で血の涙を流す聖母マリア像。
この奇跡はいったい何を物語っているのだろうか。

赤い血の涙を流すということは、その色からして
人類に対する警告なのかも知れない。

現に第一次世界大戦時、ポルトガルのファティマの
地に青い衣をまとった聖母マリアが降臨し、
警告という形で三つの予言を一人の少女に伝えた。
少女の名はルチア。
彼女が聖母から与えられた使命は、
この三つの予言をローマ教皇に伝えること。

しかし、時のローマ教皇は第三の予言を知ると、
余りの恐怖から椅子から転げ落ち、
このような言葉を発したという。
「これは私が墓の中まで持って行く・・・」

そのため現在バチカンでは、第一、第二の
予言までは公開されているが、この第三の予言は
未だ封印されたままである。

その後、1973年に秋田のカトリック聖体奉仕会
修道院のシスター笹川はファティマに降りた
聖母マリアの声を聞いた。

それは人類に対する警告であり、
「間もなく想像を絶する地獄が訪れる」という。
シスター笹川は、それを回避するには、
人々の「悔い改めと祈り」が必要だと語る。

もし、私達人類が一人ひとり内省して生き、
悔い改めの心を少しでも持っていたのなら、
邪悪なディープステートによるグレートリセット
などは起こり得なかっただろう。

そして、2019年10月に再び彼女は神秘体験をし、
「審判の日」は近いと直感的に感じたという。

その2ヶ月後、ディープステートは
50年掛けて計画したグレートリセットを
遂に実行に移したのである。

余談だが、私はローマカトリック系の幼稚園の
出身で、当時正門の脇にいらしたマリア様の像に
いつも小さな手を合わせていた。なので、もし
私の前でマリア様の像が血の涙を流していたら、
綺麗な布で彼女の頬をそっと拭ってあげたい。

「マリア様、泣かないで・・・。
綺麗なお顔が赤く染まってしまうから」

闇の勢力の霊的な役割

簡単に言えば、闇の勢力は二つの存在に分けることができる。
一つは肉体を持った者達であり、もう一つは肉体を持たない霊的な者達である。

前者は後者の傀儡かいらいであり、この地上界に強い物質性をもたらし、「人類を物質社会の中に閉じ込め、霊的進化を妨げること」を目的にしている。

はっきり言えば、この肉体を持った闇の勢力とは、シオニストといわれる拝金主義者のユダヤ人達のことを指しているのだ。
要するに、軍産複合体、今で言うディープステートのことである。
ここでは「肉体を持った、持たない」を一括りにして闇の勢力と呼称する。

この闇の勢力の背後に控えているのが、光の勢力の大師方と対極をなす闇の勢力の大師方であり、彼らは東洋系六人、西洋系六人の計十二人存在するといわれている。
(秘教とは別に、闇の勢力には非常に優れた霊能者が十三人存在し、背後から彼らを霊的に支えているという説もある。)

光の大師方と闇の大師方の違いは、共に高度な霊的進化を遂げた方々であるが、光の大師方は愛の心で溢れているが、闇の大師方は情のかけらを一つも持たない。

恐らく、闇の大師方は過去世の求道者時代に自身の精神性を高めるよりも霊能力の開発だけに専念し、暗黒面の強大な力を有した人達なのだろう。

信じがたいことに、人類に災いを為す邪悪な闇の勢力も神の経綸プログラムに従っているという。

それは彼らがこの地上界における形態様相を司り、物質の維持を目的としているからだ。
そのため、闇の勢力を「物質勢力」と言い換えることもできる。

また、見方を変えれば、彼らは世界規模の災いをもたらすが、それが痛みを伴う刺激をなって人類に霊的な覚醒を促す役割を果たしているとも言える。(もちろん、彼らにはそのような自覚は全く無いが・・・。)

現在行われているグレートリセットはその顕著な例であり、この桁外けたはずれの災いにより恐ろしいほど多くの犠牲者が出ているが、それを機会に「世界では何が起きているのか」人類は意識が向くようになりだしている。
即ち、一部の人類は既に覚醒しだしているのだ。

いずれ人類は、進化の過程の中で今の物質主義から抜け出し、霊的な世界へと意識を移行させなければならない。

神はそのためには邪悪な闇の勢力であっても、利用できるものはすべて利用し人類の進化向上のためには手段を選ばないのである。

例えるなら、私たち人類はビリヤードテーブルに置かれたボールであり、そのボールをキューでき刺激を与えるのが闇の勢力の役割と言えるだろう。

グレートリセットの大破壊は非常に悪魔的で凶悪なものであるが、逆に新時代を創造する上で必要悪な出来事であることも否めない。

しかし、破壊をもたらすことが神から与えられた役割であったとしても、闇の勢力の彼らも一応人間として生を受けているので、「自身がしたことは必ず自身に返るカルマの法則」から免れることはできない。

では、人類を滅ぼすほどの途轍とてつもないカルマを積んだ「左手の道」を歩む極悪人達は、後に自身のカルマの責任をどのようにして取らなければならないのだろうか・・・。

それは「アヴィチ」といわれる地獄の体験者となるのである。

ペットの鳥(1867年)
ウィリアム・アドルフ・ブグロー

闇の勢力の常套手段の一つに、
人心を恐怖であおるというものがある。

一例を挙げれば、ありもしないものをあると言って
わざと大騒ぎをし、それが危険であると認識させ、
無知な人々を破滅の道へ誘導していく方法である。

一度誘導された人々は「それが危険である」と
思い込まされているので、懐疑的な者達に対して
数の力で同調圧力を掛ける。

気の弱い人達は、その「危険」に懐疑的で
あっても数の力で萎縮し、同調圧力に屈して
しまう。そして、それがまた新たな同調圧力を
かけることに繋がっていくのである。

「悪魔」
彼らは恐怖心に駆られた結果、闇の勢力の術中に
嵌まり、知らぬ間に悪魔の手先となってしまった。

ウィリアム・アドルフ・ブグローの作品で、
愛らしい少女が小鳥と語らっている絵画がある。

もし、仮にこの少女がDSの子供だったとしたら、
指先の小鳥にこのように言うだろう。そして、
小鳥が勇敢ならこのような返事を返すに違いない。

少女「いい?おまえは私の下僕よ!」
小鳥「嫌です。断固拒否します。」

少女「言うこと聞かないと焼き鳥にするわよ!」
小鳥「例え炭火で焼かれても、断固拒否します。」

少女「逆らうと羽を全部むしるわよ!」
小鳥「全身がスキンヘッドのようになっても、
断固拒否します。」

両者の体格差を見れば明らかだが、格闘技で言えば
バンタム級とヘヴィ級どころの重量差ではない。

この小鳥は「世間が騒ぐ危険に懐疑的な一部の
人達」、人間の少女は、小鳥との体格差から
「その騒ぎに煽られ一部の懐疑派に同調圧力を
掛けた複数の人達」とみることもできる。

このように、闇の勢力は邪悪な目的を果たす為に
人の恐怖心を常に煽り、無知な人々を道具として
利用し続ける。けれど、同調圧力に屈すれば
彼らと同じように「哀れな犠牲者」となる。

人は、ときに負けると分かっていても、
自身の意見を通さなければならない。

そうでなければ、新時代に待ち受けている
霊的な第一段階のイニシエーションの門を
くぐることはできないだろう。

アヴィチって何かしら?

サンスクリット語の「アヴィチ」。
このアヴィは阿鼻叫喚あびきょうかんの語源でもある。

阿鼻叫喚は「悲惨な状況の中で苦しみ叫び、非常にむごたらしい状態」を意味する。
まさに四字熟語で地獄の様相を言い表しているが、仏教の阿鼻地獄は八熱地獄の一つであり、「苛酷だがそこに落ちた極悪人が霊的に浄化されればいずれ出られる空間」である。

それに対して、アヴィチは「そこに落ちれば永久に出られない目を覆うほどの凄惨せいさんな空間」であるという。

何にせよ、地獄もアヴィチも「血も涙もない極悪人だけが落ちる悲惨な空間」であることには変わりはない。
しかし、これは宗教で説かれる地獄の様相であり、秘教で説かれる地獄観とはだいぶ隔たりがある。

秘教の地獄とは、宗教観から来る「あの世で体験する肉体的拷問」ではなく、極悪人が死後に落ちる地獄絵巻のような「特定の空間」を指すのではない。

簡潔に述べれば、秘教でいわれるアヴィチとは、転生後の来世においてカルマの清算による「想像を絶する悲惨な人生を送らなければならないという精神的な拷問」を意味する。
即ち、極悪人が過去世で悪意をもって人に害をもたらしたカルマが鏡の作用の如く自身に跳ね返り、「被害者の苦しみが精神的拷問として自身の意識の中で起こる追体験」をアヴィチというのである。

この宇宙は神の世界である。
よって、如何なる存在も神の懐に抱かれている。
それは極悪人のような闇の勢力でさえも、例に漏れることはない。

何故なら、血も涙もない邪悪な闇の勢力であっても一応人間としてこの世に生を受けているので、彼らにも「第一ロゴスの顕現であるモナド」を持っているからだ。

モナドとは広義の意味で「魂」を意味するので、魂を持っているということは邪悪であっても彼らも神の一部であることを意味する。
神の存在は「善そのもの」なので、高周波領域の存在である。

しかし、闇の勢力は魂を持っていても意識が神から乖離かいりし極度に悪に傾倒したため、神の周波数領域から外れ低周波存在に堕してしまった。
要するに、彼らは邪悪を好んだが故に、自らの神聖な魂であるモナドとパーソナリティー(肉体人間)の関係を断ち切ってしまったのである。(詳細は第47回:超秘教入門9|Loving you Sunday Morning モナド & パーソナリティーを参照)

アヴィチの状態は霊的には最も悲惨な状態であり、時間の経過と共に人間性を徐々に失い、獣性を強め退化していく。
この退化した魂は死んでもすぐに生まれ変わり、想像を絶する悲惨な人生を送らなければならず、一回または数回の転生後に最終的には消滅する。

その極悪人でも心の底から改悛かいしゅんすれば切り離された神聖なモナドとパーソナリティーを再び繋ぎ合わせることもできるようだが、極悪人が改悛することはまずないであろう・・・。

秘教では、極悪人の末路をこのように伝えているが、善人悪人問わず、これらのカルマの調整を行っているのが「カルマの神々」である。
彼らは各個人のカルマだけではなく、一族や民族のカルマ、また企業や国家のカルマなども管理している。

それがH・P・ブラヴァツキーの著書、シークレット・ドクトリン 宇宙発生論《上》の中で記されている「地上界の東西南北を支配する四天王」である。

また、チャールズ・ウェブスター・リードビーターの著書「アストラル界 -精妙界の解明-」の123頁にも、この東西南北の支配者について「地球の摂政せっせい」や「東西南北の天使」とも記されており、ブラヴァツキーの説く四天王は西洋の「四大天使」とも重なっている。

四大天使のミカエルは南方、ガブリエルは西方、ラファエルは東方、ウリエルは北方を守護するといわれているので、もしかしたら、これらは同じ存在を指しているのかも知れない。

最後に、秘教とは別に私が霊的研究から得たカルマについての個人的見解を述べて今回の記事を終えることにしよう。

それは現行の政治家のように、日頃から息を吸うように平気で嘘をつき悪事を働く者は「悪を悪とも思わない」ため、現世のカルマが自身に返るまでにはかなりの時間が掛かる。

もし、悪人ではない人が魔が差して悪事を働いてしまった場合、良心の呵責かしゃくに苛まれ、比較的早く現世のカルマとして自身に還ってくる傾向がみられる。

この考察が正しければ、人は「悪を認識せず」に悪事を働く場合とそうで無い場合とでは、この現世におけるカルマの返り方に大幅な時間差が出るといえる。
これは悪のカルマに関して言えることであって、善のカルマについてはこの範疇には入らない。

この他にも、個人の「霊格の差」によりカルマの顕現の速度に違いがみられるが、それはまた別の機会に譲ろう。

霊的な道を歩む諸友の参考に少しでもなれば幸いである。

聖ミカエル|ルカ・ジョルダーノ(1663年)

ヨハネの黙示録第12章7節から9節には、
「光と闇の戦い」が記されている。
そこには天使長ミカエルと他の御使い達と、
悪魔を表わす巨大な邪龍との戦いが描かれている。

「悪魔の軍団は天使の軍勢に応戦したが敗北し、
悪魔達は自らの居られる場所を失った」とある。

この巨大な邪龍はかつて蛇に身をやつし、
イブをそそのかしてアダムを罪に陥れ、それ以来、
人心を惑わしこの世界を闇で覆ってきたが、
天使の軍勢によって悪魔達は地上界へと
投げ落とされてしまった・・・。

現在、地上界で行われているディープステートに
よるグレートリセットは、既に天界で起こった
「光と闇の戦い」の再現である。

霊的には、悪魔の軍団はまず神に仕える
高次元存在に攻撃を仕掛けてくる。
けれど、周波数の低い悪魔の軍団は、
周波数の高い高次元存在には適わず敗北する。
(低い周波数は高い周波数に呑まれて
しまうのが宇宙の法則である。)

これは三次元以上の霊的な世界で行われる
戦闘のため、その勝敗の結果は青写真ブループリントとして
後になってから地上界にもたらされる。

即ち、今地上界で悪の限りを尽くしている
闇の勢力は、既に青写真上では敗北しているのだ。

これにより「新時代」の到来は約束されて
いるのだが、問題は、現在地球上の周波数が
上がっているにも拘わらず、人類の意識段階が
非常に低く、まだ物質主義に囚われたままで
あり「友愛の精神」に欠けていることである。

この有様では、新時代が到来したとしても、
人類の大半が次にこの地球上に
輪廻してくることは不可能であろう。

来たるべき新時代を迎えるためには、やはり
「悔い改め」の精神が必要なのは言うまでもない。

しかし疑問だ。
心の穢れた我良しの現代人が「悔い改めの心」を
今更持ったところで、それは付け焼き刃に過ぎず、
「神の御心に適った者」と言えるのだろうか。

願わくば、間近に迫った終末の日を迎える時、
一人でも多くの人類が神の恩寵(救済)に
あずかれますように・・・。

父と子と精霊の御名によって
アーメン

推薦動画:Seventh Son of a Seventh Son|Iron Maiden

このモンスターは、イギリスのヘヴィメタルバンド
Iron Maidenのキャラクターで
「エディー・ザ・ヘッド」。

メタルファンからは「エディー」と呼ばれ、
Maidenのステージでも巨大なエディーの仕掛けが
ライブを盛り上げてくれるので、ファンからは
大変親しまれているキャラである。

このアルバムはMaidenが1988年にリリースした
初のコンセプトアルバムで、タイトルは
「Seventh Son of a Seventh Son」。
今回紹介した曲も全く同名の曲である。

神智学文献を紐解くと、「7」という数字が
堰を切ったように流れ出てくる。
即ち、7という数字には霊的に深い意味が
秘められているのである。

例えば、太陽系の進化で言えば「7亜人種、
7根本人種、7世界期、7環期、7連鎖期、
7進化大系」そして「7光線」というように、
「7」という数字が羅列し彩られている。

今回の記事では、H・P・ブラヴァツキーの名著
シークレット・ドクトリンを紹介したので、
その中でも「7」という数字が幾重にも
出てくるため、「7」繋がりでMaidenの名曲
「Seventh Son of a Seventh Son」を紹介した。

理屈はさておき、Maidenの曲はどれもかっこいい
ので、興味を持たれた方は是非視聴されたし。

余談になるがヘヴィメタルが流行ったのが80年代
中期。その頃「全国こども電話相談室」に
ある子供からこのような質問があったそうだ。

子供「”ヘビーメタル”って何ですか?」
先生「先生分からないなぁ~。
それは新種の蛇じゃないかなぁ~。」

このやり取りを聞いた当時の国内のメタルファンは
皆、青筋を立てて怒っていた。
「答えられないなら初めから答えるんじゃねーっ!
メタルを馬鹿にしやがってっ!」

これは80年代中期に起こった出来事であるが、
21世紀になった今でもこういう「無責任な
発言をする大人達が多い」と思うのは、
私の気のせいだろうか・・・。