第46回:超秘教入門8|二重人格 霊的文化の輸入に伴う言語変換の難しさ
超人の呼び方あれこれ
この超秘教入門では、ここ数回に亘り、秘教の世界に伝わるイニシエーションについて説いてきた。
人間が受けることができるイニシエーションは四つであり、第一段階はソターパンナ、第二段階はサカダーガミ、第三段階はアナーガミ、第四段階はアルハットである。
第四段階のイニシエーションを超え第五段階のイニシエーション「アセカ」へ至ると、人間はカルマの法則から解放され超人へと昇華する。
神智学では、人間を超えた超人のことをマスターまたはアデプトと呼ぶが、インドでは「マハ(偉大)」と「アートマ(魂)」という言葉を合わせ、「マハートマ」という言葉を用いている。
簡単に言えば、マハートマとは「偉大な魂」を指すので、解脱を果たした完全な存在、即ち「ブッダ」を意味している。
(ブッダとは、世間では仏教を開いたお釈迦様のことをいうが、本来はお釈迦様に限らず、解脱を果たした者は全てブッダという。)
日本では、この超人のことを日本語で「大師」と呼んでいる。
けれど、大師というとどうしても禅の始祖の達磨大師や、唐から真言密教の大系を我が国にもたらした弘法大師空海といった高僧の大師号が必然的に浮かんでくるので、ハイラーキーの大師といった場合には少々抹香臭い感があるのは否めない。
そのせいか、英国人画家ベンジャミン・クレーム氏の著書と講演会の翻訳をされた石川道子氏は、超人のことを大師とは言わずに「覚者」という言葉を用いて表現されている。
試みに、日本における仏教の高僧の大師号を挙げてみると次のようになる。
真言宗系では、弘法大師空海、理源大師聖宝、興教大師覚鑁、などであり、また天台宗系では、伝教大師最澄、慈覚大師円仁、知証大師円珍、などである。
この他にも朝廷から大師号を賜った高僧は存在するが、それを挙げれば切りが無いのでこの辺にしておこう。
ここで注意すべきは、「朝廷から大師号を賜った」という箇所である。
要するに、真言、天台の高僧であっても、勝手に宗派内で○○大師と名乗ることはできない。
これは朝廷から見て、仏教者として国家の国益に貢献した高僧にのみ与えられる、いわば国家公認の称号なのだ。
この大師号は、または「諡号」ともいい、仏教の本を紐解くと、大師号ではなく諡号と記されていることが多い。
なお、真言、天台の大師号を賜った有名な高僧達の功績を、以下の図に要約してみよう。
日本国内における二つの密教
一般的に密教といえば、空海が平安時代初期に唐からもたらした「真言密教」を思い浮かべるのではないだろうか。
しかし、日本国内には空海の真言密教だけではなく、天台宗の総本山、比叡山にも平安時代から伝わる「天台密教」というものが存在する。
(後に、天台は円仁の比叡山延暦寺の山門派と、円珍の長等山園城寺の寺門派に分裂し、五百年間争う。)
これを話すと煩雑になるので簡潔に記すと、遣唐使で中国に派遣された高僧の一人に、天台宗を開いた最澄がいる。
彼は、当時の日本仏教には不足していた天台法華宗の教えと大乗戒壇を設けることなどを目的に唐に渡ったのだが、定められた期間までに当初の目的を果たすことができたので、余った時間を有意義に活かし、当時中国では最新の仏教である密教も修めて帰国した。
最澄が持ち帰った密教は「加持祈祷による現世利益をもたらす呪術」であるため、朝廷ではこの密教に大変興味を示し、重んじるようになる。
しかし、間もなく無名の僧侶だった空海が唐から帰国し、密教の全大系を国内に招来する。
要するに、最澄が日本に伝えた密教は真言密教の一部分であり、それに対して空海はその真言密教の全大系を国内にもたらしたことになる。
これにより、密教に関して、天台と真言ではかなりの差がついてしまった。
最澄は、日本天台宗を国内における仏教の総合大学として構想しており、以下の四つの仏教の分野を重視した。
それが「円(天台)、戒律、禅、密教」の四宗融合である。
この四宗融合を基に僧侶を育成し、国内に仏教の新体制を築くことを目的としたのが日本の天台宗である。
最澄の没後、天台宗では密教の問題が宙に浮いたままの形で残ってしまい、それを解決するべく円仁、円珍といった優秀な高僧が唐に立て続けに渡り、密教の全大系を比叡山に持ち帰った。
ここにきて、ようやく天台宗は密教で真言宗を追い抜く程の力を身に付けることに成功する。
(例えば、真言宗は金剛界法と胎蔵界法で完結する。しかし、天台宗はその両法を統合する法として胎蔵界法に含まれる蘇悉地法を重視するなど、天台独自の密教の理論を展開する。)
そして、後に天台では安然という比類無き大学匠が現れたことによって、天台密教独自の大系が遂に完成した。
即ち、天台密教は、円仁、円珍、安然の三人の高僧達によって、真言密教とは異なる形の「日本独自の新しい密教」を作り上げたのである。
これが日本における密教の歴史であるが、真言密教は京都の東寺を拠点にして勢力を拡大してきたので「東密」といい、天台密教はその名称を省略して「台密」という。
同じ仏法でも・・・。
仏教に触れたことがない人にとっては、恐らく仏教と密教の違いがよく分からないのではないだろうか。
同じ仏法でも、仏教と密教では明確な違いがある。
これを専門的に言えば、仏教は顕教であり、「一般的な仏教の表の教え」であるのに対して、密教は「仏教の奥義ともいえる裏の教え」ということができる。
さらに顕教と密教の違いを挙げれば、顕教は「煩悩を否定する」お釈迦様が説いた教えであるのに対し、密教は「煩悩を肯定する」大日如来が説いた教えである。
前者は「人間、煩悩に振り回されていては解脱の妨げになるのでそれを捨てよ」というものであるが、後者は「人間の煩悩は強力なエネルギーなので、解脱の原動力として逆に利用していく」という理論の違いがみられる。
どうする?自国に無い抽象的な言葉っ!
密教の話はこれくらいにして、話を元に戻そう。
このように、大師という言葉についていえば、仏教では専売特許の如く真言・天台の名だたる高僧達を連想させるので、日本国内の秘教家が使う超人に対する大師という表現には、個人的に違和感を覚えてしまう。
そこで、筆者は仏教との言葉の混同を避けるため、石川道子氏の「覚者」ではないが、以前から「大師」に代わる呼称を考えてみたものの、「聖師」では大本教の出口王仁三郎、また「道士」だと中国の道教の道士になってしまうので、これも相応しくはない。
なので、ここでは秘教を説いていく上で賢しらなことは止め、国内では以前から使われてきた「大師」という言葉で話を進めていくことにした。
なお、初期の頃の神智学協会では、超人のことを「マスター」や「アデプト」といった現在神智学で使われている言葉は使わずに、ただ兄弟と呼んでいたようである。
それは超人達がハイラーキーという霊的な聖白色同胞団に所属していることに因るという。
何故なら、神智学協会員達はインド人ではなく西洋人で構成されていたために、マハートマという言葉に馴染みがなかったためである。
このように、東洋発祥の叡智を西洋人が神智学として学ぶ上で出てしまったのが、言語の問題である。
インドでは霊的な歴史がとても古く、人間を超えた超人を「神の化身」として捉え、「マハートマ」や「ニルマーナカーヤ」、そして「アヴァターラ」等という言葉が存在する。
このような言葉が物質文明の西洋には存在しないので、この超人に該当する言葉が西洋には見当たらない。
これは秘教といわれる神智学の言葉だけに限らず、仏教でいう「悟り」という言葉にも該当するものは無いという。
そこで、あるフランス人女性は、仏教の「悟り」という言葉をフランス語の自由を表わす「libere」からとって「liberation」と表現した。
即ち、リベラシオンとは「自由」や「解放」という意味であり、それを仏教の悟りという言葉に置き換えたのである。
この話を聞くと、「悟りと自由は違うものではないか」と思われる方がいるかもしれない。
しかし、仏教でいう「悟り」とは、個人の意識を超えた、あらゆるものからも束縛されないという「仏の境地」を意味する。
よって、悟りとは個人の意識を拡大し、宇宙の意識と融合したことを表わす言葉なので、霊的な意味において真の自由を得たことになる。
それが真の自由を得た「仏」ということだ。
その意味において、このフランス人女性が自国の言語を用いて仏教の用語に当てたことは、とても柔軟な発想から生まれた言葉だといえる。
今回の記事で、私が言葉の意味についてしつこく考察を重ねているのは、人は日常生活の中で何気なく使っている言葉の本来の意味を見落としていることがまま見られるからである。
言葉の本来の意味を見落とすということは、言葉はある事象を表わすものなので、そのものの本質を見落としているということになるからだ。
人は本質を見落とせば、生きていく上で足を掬われることにもなりかねない。
即ち、言葉の本質を理解するということは、人生の危険予知にもなるのである。
空海と最澄はイニシエートなのか?
ここで日本人として、当然ながら一つの疑問が浮かぶ。
平安時代初期の仏教界の偉人である二人の高僧、空海と最澄は、秘教でいうところのイニシエートなのかということである。
秘教では、真言宗を開いた空海は2.0段階のイニシエートであり、天台宗を開いた最澄は1.9段階のイニシエートであるという。
要するに、この二人の高僧の霊的段階には、さほど霊格の差の開きはみられないということだ。
もし彼らがイニシエートでなければ、後の世に残る程の輝かしい功績を仏教界に残すことはできなかったであろう。
これは秘教の世界での霊格の話であるが、ここからは、試みとして日本の神仙道で伝えられている空海の帰幽後の消息について取り上げてみよう。
神仙道の世界では、平田篤胤の仙境異聞、宮地水位の異境備忘録、参沢明の幽界物語は日本の霊的な世界、即ち幽真界の消息が記されている貴重な書として著名である。
今回は、この三書籍の中から「幽界物語」を取り上げて、空海帰幽後の消息を紐解いてみよう。
この幽界物語は、紀州の人、島田幸安が幽真界に出入した体験談を平田派(平田篤胤の学派)の国学者、参沢明が記したものである。
ある時、参沢が質問状を認め、幽真界に出入する島田に託し、彼が師事している高級神仙、清浄利仙君に書簡を通して尋ねた。
その質問の内容は、「弘法大師空海の帰幽後の霊的消息をお教えいただけないでしょうか。」というものであった。
すると、清浄利仙君は書簡を通して回答し、「高野山は天野丹生明神が管轄する産土の区域であり、空海はその山の愚賓として霊的に奉仕している」という。
愚賓というのは、早い話、人間界でいうところの天狗のことである。
それを幽真界では愚賓と呼び習わしているのだ。
愚賓(天狗)となった空海は、遍照坊と称する正一位の山霊で、常に天野丹生明神に仕えているといい、彼は神仙境に滞在している時には、遍照坊ではなく金剛坊という。
これが神仙道に伝わる空海帰幽後の霊的消息である。
このように日本の神仙道でいう幽真界も、秘教の世界と同じように霊的な階層社会で成り立っていることが理解できる。
それは神仙、山霊、愚賓といった言葉で幽真界は各位が表わされているのだ。
その幽真界での階級を高い順から挙げていくと、以下のようになる。
人間が幽真界に移行すれば、かつての現世の身分の上下は無くなる。
なので、この人間界で得た階級は、あくまで現世の人間界だけで通用する限定されたものであり、幽真界に入れば生前の肩書きを用いて「虎の威を借る」ことはできない。
要するに、幽真界では白紙の状態から各自出直すことになる。
この幽真界では、生前、人間としての精進の如何が問われ、神に対する崇敬の念や、培われた倫理道徳観の度合いなどによって、霊的な地位が定められる。
(中には島田幸安のように、生前から幽真界に出入する者もいる。)
それが上記の図3に示される、幽界物語に伝えられる幽真界の霊的な階級なのである。
なお、幽真界では何故天狗が愚賓と呼ばれるかというと、彼らは皆生前仏教を信仰していた僧侶や修験者であり、「日本古来の神の道」から逸脱した愚かな魂であるからそのように呼称されるようになった、と言われている。
とはいえ、仏教を信仰した者であっても愚賓ではなく、高度に霊的な進化を遂げた仏仙も存在するので、一概に仏教だから愚かという訳ではないようだ。
それは「お釈迦様が説いた本来の仏法」ではなく、「我が国に輸入され、独自に日本化された仏教」に要因があると幽真界の神仙方は見られているようである。
以上、空海の帰幽後の霊的消息から、日本の幽真界の序列までを試みに考察してきたが、我が国の神仙道と西洋の神智学の霊的なヒエラルキーの比較検討をしてみるのも研究の一環になるのではないだろうか。
何故なら、神智学協会の三大目的の一つには、「 古代及び現代の宗教、哲学、科学の研究、及び同研究の重要性を実証する」とあるのだから。
五蘊と人間の各諸体
さて、前回の記事、第45回:超秘教入門7|Another Day イエスの受難を辿るイニシエートたちの中では、神智学を学ぶ者が必要最低限知っておかなければならない用語を紹介した。
下記の図5で挙げる神智学の中で使われている用語は、人間の肉眼で見える体と肉眼では見えない霊的な諸体について説かれているものである。
それを簡単におさらいすれば、人間の肉眼で見えるのは肉体のみで、アストラル体、メンタル体の二体は肉眼では見えない。
神智学では、肉体、アストラル体、メンタル体の三体を合わせて「パーソナリティー」といい、これを日本語に言い表すと「低級我」という。
私達は「肉体」というと普段活動するための体のみを意識するが、同時に「肉眼では見えない自身の能力・作用」としての「感情や思考」が重なりあって存在している。
その人間の肉体に幾重にも重なる「諸体」であるアストラル体が感情として作用し、メンタル体が思考として作用する。
けれど、神智学では更に複雑になり、肉体は「濃密な肉体」と「精妙な肉体」の二つの諸体で構成されているといい、この精妙な肉体とは、肉眼では見えない「気」でできた半物質のエーテル体のことをいう。
メンタル体も二つあり、一つは具体的な思考を司る「メンタル体」であり、もう一つは抽象的な思考を司る「コーザル体」である。
国内の神智学文献の中では、この二つのメンタル体の作用を合わせて「マインド(心)」と表記されている。
ただ、秘教家ではない一般の人達からしたら、「心」という表現はどうしても感情の作用を思い浮かべるので、違和感を覚えるのではないだろうか。
メンタル体は、具体的思考にせよ抽象的思考にせよ「思考すること」を意味する。
この場合、大脳生理学的には、前者のメンタル体とは「左脳的思考」を意味し、後者のコーザル体は「右脳的思考」と意味していると言える。
よって、初学者の場合は「マインド」を心として捉えるよりも、頭脳として捉えた方が話が早い。
但し、頭脳として捉えた場合は、肉体の頭部の中に存在する左右の脳を意味することになってしまうので、霊的なメンタル体、コーザル体の作用としての意味を失ってしまうことになる。
なので、「マインド(心)」という神智学用語を、初期の時点で理解する場合は、「心」というよりも「左脳・右脳的な頭脳の働きを意味するもの」として捉え、マインドの解釈に慣れてきたら「意識」という捉え方をした方が理解しやすいだろう。
この人間のパーソナリティーを捉えたときに、肉体以外は肉眼には見えないので霊的な諸体ということになるが、霊的とはいっても神智学ではこれを「本来の人間の魂」とは見なさない。
それを語る場合は「モナド」というものに触れなければならず、話がより煩雑になるので、また別の機会を設けて段階的に書き記すことにしたい。
なお、仏教では、この肉体と霊的な諸体を合わせた「パーソナリティー」を人間の物質的な属性と捉え、「五蘊」という言葉で表現している。
五蘊という言葉が出てくるお経で知られているのは、般若心経だ。
(般若心経は大般若経全600巻を僅か262文字に縮約したものである。)
その般若心経の中に五蘊が出てくるのは、無色無受想行識という箇所である。
仏教では体のことを「色」といい、心の作用を「受想行識」として捉えるのだ。
色は肉体のことを指すのでよいとして、問題は心の作用の方である。
この心の作用とは、神智学でいう「肉眼では見えない霊的な諸体」と捉えればよい。
受は感覚、想は概念、行は精神、識は知識ということになる。
神智学的にも、色は肉体、受はエーテル体、行はアストラル体、想はコーザル体、識はメンタル体にあてはめることができる。
なお、神智学のパーソナリティーと仏教の五蘊を照らし合わせてみると、以下の図4になる。
(但し、図4では、仏教の五蘊の順序を並べ替えて表示してあるので、注意されたし。)
これはH・P・ブラヴァツキーの著書「神智学の鍵」の第8章、輪廻について(121頁)の仏教の五蘊についての説明と、松原泰道の著書「般若心経入門」を合わせて自己流に解釈し、参考として図にまとめたものである。
今回の超秘教入門8は、大変抹香臭い内容のものになってしまったが、実は神智学協会を設立しだH・P・ブラヴァツキーとH・S・オルコットは共に仏教徒であったし、日本に神智学を紹介し広めたのは禅系の仏教学者、鈴木大拙であったことからも、神智学は仏教とも霊的な縁が深いということを付記して、今回は筆を置こう。