第50回:超秘教入門12|Sabbath Bloody Sabbath カルマは影の如く・・・
それは偶然の産物であった・・・
前回の記事、「第49回:超秘教入門11 | Pride And Joy『 秘教GO!GO!GO!』」では、やたら小難しい秘教の勉強でも、脳に刺激を与え『これは娯楽なんだっ!』と勘違いさせ、できるだけ楽に覚えられる勉強法「Dr. Feelgood奏法」を紹介した。
実を言うと、この秘教とロックのコラボレーションは、「第39回:超秘教入門1 Livin' on A Prayer 資本主義末期に生まれたトミーとジーナ」の時だけで終わりのはずだった。
それはこの回の記事が「ディープステートの所為でフランス革命後、世界は商業主義一色に染まってしまい、我々人類は貧乏な生活を余儀なくされた」という趣旨の内容だったので、それで「貧乏と言えばこの曲しかないっ!」と思い、Bon Joviの名曲「Livin' On A Prayer」を一つの試みとして紹介したのである。
(1779年のフランス革命は首都パリで起こったものであり、国内全体で起こったものではない。パリにはロスチャイルド家の邸宅が何十邸もあったが、彼らの邸宅は一つも暴徒に襲われることはなかった。これは何故だろうか・・・甚だ疑問である。)
それが「第40回:超秘教入門2|CARPET CRAWLERS 抜け出すためには・・・」でも、記事の内容である「イニシエーション」とGENESISの曲「CARPET CRAWLERS」の詩が偶然噛み合ったので、図らずも再び往年のロックの曲を紹介することになった。
本当は超秘教入門1、2回目で紹介したBon JoviとGENESISの曲で終わるはずだったのだが、3回目の原稿を書いている時に、不思議にも偶然「3」という数字がやたら付き纏ってきたので、その時何気に浮かんできたのがEmerson, Lake & Palmerの曲、「Trilogy」だった。
それで「この曲も記事の中で紹介しちゃえっ!」ということになり、できあがったものが「第41回:超秘教入門3|Trilogy 秘教の世界を伝えた三人の女性たち」の回である。
そして、気が付いたら今に至るまで往年のロックの曲をここで紹介するようになっていた。
そのようなわけで、ここで紹介している秘教をできるだけ楽に学ぶための勉強法「Dr. Feelgood奏法」は、偶然の産物によってできたものである。
なお、冒頭のタイトルに記されている英語の綴りは、その回に紹介しているロックバンドの曲名になる。
(なかには英語の綴りではなくイタリア語や日本語も入っているが、いずれも曲名を示している。)
輪廻と対をなすもの、それは・・・?
秘教を学ぶ諸友よ。
前回の記事、第49回:超秘教入門11 | Pride And Joy『 秘教GO!GO!GO!』では、広義の意味でモナドを魂と見なし、それが地上界に何度も転生を繰り返してくることを理解した。
また、人の魂が輪廻をするのは更に霊格を高めるためであり、それは私たち人間が解脱し、超人に至るまで延々と続くことも理解した。
そして、今回はその魂の輪廻に付随してくる、ある意味有難くない「カルマ」について考察していこうと思う。
カルマ。
人がこの言葉を聞けば、あまり良いイメージを持つことはないであろう。
それは特に宗教やオカルトなどをしていなくても、「自身がした悪い行いが自身に返ってくる」という意味で捉えているからだ。
「カルマ」とは、インドのサンスクリット語で「行為」という意味である。
行為というのだから、もちろん人の悪い行いだけではなく、その逆の善い行いも含まれる。
しかし、現代は競争が激化した資本主義末期のストレス社会である。
そのような忙しない時代の中で、いったいどれぐらいの人々が他者に善い行いを為せるほどの「心のゆとり」を持っているのであろうか。
言うまでもなく、人は心のゆとりがなければ、他者に対して意識を向けることはできない。
このような時代に個人が積むカルマは、どうしても「善い行い」よりも「悪い行い」の方に偏りがちである。
人は日々の社会生活の中で溜め込んでしまったストレスを吐き出そうとする。
そこで刺激が必要となり、それがまた新たなカルマを生んでしまう。
以下に例を挙げてみよう。
今の時代は「昭和」とは違い、家の中でタバコを吸うことは家族の健康を害するため許されない。
それで喫煙者は台所の換気扇の下か、ベランダで一服し、煙を燻らせる。
その有害な副流煙は近隣の敷地に流れていき、生活環境を汚されたご近所から思わぬ不興を買ってしまう。
(タバコの副流煙は近隣の洗濯物に臭いを付けてしまったり、夏場は網戸から入って他家の部屋の空気を汚してしまう。けれど喫煙者はそのことに気がついていない。)
また、ストレス解消に部屋の中で機材の音量を上げゲームや音楽鑑賞をしたり、ピアノやギターなどの楽器を演奏したりすれば、それらの音は外に漏れ、近隣に騒音被害をもたらしている可能性がある。
(特に、重低音機材は音を絞っても「重く低い音」は床や壁を伝って近隣の部屋に反響し、深刻な騒音被害をもたらす。
この重低音を毎回聞かされれば、その騒音の被害者達は「低音難聴」になってしまう。やはり、当事者はそのことに気がつかない。)
これらのストレス解消の行為は、当人には素晴らしい開放感をもたらすが、近隣の人々からしてみれば一方的に酷い被害に遭うのでたまったものではない。
そして、このような酷い被害に遭った近隣の人々は、平穏な生活を奪われ腸が煮え繰り返っているのは言うまでもないだろう。
呪われし者へ
現代はストレス社会なので、どうしても溜まったストレスのガス抜きをしなければならないのは仕方がない。
けれど、個人のストレス解消から知らず知らずのうちに負のカルマを積んでしまっている人々が、現代日本には大勢存在する。
それはインターネット上でも、先に述べたような被害に遭った人達からの怒りの声が溢れ返っていることからも明らかである。
何にせよ、人様に迷惑を掛けてしまったのなら、加害者は「被害者と同様の苦しみ」を今生または来世で体験することになる。
(もし、霊的な諸事情で被害者と同様の苦しみを体験できない場合は、それ相応の苦しみを受ける。)
でなければ、「自分が他人に何をしてきたのか」を霊的に学ぶことができないからだ。
これがカルマの法則であり、自身がした行為は必ず自身に還ってくるのである。
けれど、カルマは「自身の行為が自身に還ってくる」というほど単純なものではない。
何故なら、自身の行為によって他者から怒りを買うことは、「相手から恨まれる」ことであり、それは「人から呪われた」ことになるからだ。
「呪い」とは被害者の負の念の塊なので、生霊として加害者に自動追尾ミサイルの如く飛んでいくのである。
ここから分かることは、「カルマには二つの作用がある」ということだ。
一つは、加害者は自身がした事の責任を取るのが「カルマの法則」。
もう一つは、加害者がした事により人から恨まれ呪われた場合は「カルマの法則とは別に生じた問題」になる。
このように、意図せず犯してしまったカルマでも、二重の問題を孕んでおり、どちらの問題もいずれ自分ひとりで対処しなければならない。
なお、カルマに因んで「罪」と「咎」の違いに触れると、以下のようになる。
「罪」とは、意図して犯した負の行為。
「咎」とは、意図せず犯した負の行為。
ここで取り上げた過失行為の場合は、意図せず犯した負の行為になるので、後者の咎になるのである。
では、もし、図らずも人から恨まれ呪われてしまった者は、その後の人生、いったいどのようなことになるのだろうか・・・。
呪いは心身に悪影響を及ぼす
先に述べたストレス解消法によって人様から不興を買った場合は恨まれ呪われることになるが、これは自業自得なので、例え生霊が飛んできたとしても仕方のないことである。
ではこれから、生霊に取り憑かれた人の心身に及ぼされる悪影響について、日本の超心理学者で神職、元愛媛大学教授の中村雅彦氏の著書、「祈りの研究」の一部を要約して記述してみよう。
カルマについて語るとき、以外と見落としてしまいがちなのが、「加害者は自身が積んだカルマを清算する以前に、被害者から恨まれ呪われる問題と直面する」ということだ。
それが先の「生霊に憑かれた人の心身に及ぶ悪影響」に顕著に表れている。
これを一言で言えば、「加害者の運気が落ちる」のである。
この加害者の運気の落ち方は、恨みを抱いた被害者の「念」の強弱によって、その度合いが異なってくる。
例えば、極論になるが、あるお店で働いているバイト生がとても念の強い人で、店長が何らかの理由でそのバイト生に恨まれた場合、店自体が閉店してしまうことさえ有り得る。
このように、念の強弱は人によってかなり差が出るが、それはその人の過去世の在り方によって、その度合いが異なってくるのである。
もし過去世で一般の村人や町人として生まれ一生を終えたならば、その人の念の力はさほど強くなることはないであろう。
けれど、なかには山岳修験道を開いた役小角や、二天一流を開いた宮本武蔵のように命懸けの苦行荒行に打ち込み、鬼神の如き力を身に付けた猛者達もいる。
そのような人達は、その緊迫した人生から常人とは比較できない桁外れの集中力を身につけてきた人達である。
もし、そのような過去世を持つ人に怒りを買い恨まれた場合は、その念の力は想像するに難くはないであろう。
秘教でいう人の「念」は、物質質量よりも精妙な「アストラル質料」でできているため、距離も関係なければ物質も通り抜ける力を持っている。
なので、人から執拗に恨まれ生霊が飛んできた場合には、恨まれた人が東京に居ようとパリもしくはロンドンに居ようと、果ては北極・南極に居ようと、生霊はその人に向かって瞬時に瞬間移動してきてしまう。
例え、加害者が生霊の災いに気づき霊能者にお祓いを依頼しても、生霊は祓っても祓ってもキリがなく、加害者が恨みを抱かれ続けている限り、相手の生霊が際限なくミサイルのように飛んでくることは避けられない。
近隣の被害者一人の念でこの有様なのだから、もし、一世帯4~5人の家族全員から怒りを買ったらどうなるのだろうか。
また、それが一世帯だけではなく数世帯の家々から・・・考えただけで冷や汗が止まらない。
そして、時の経過と共に被害者の恨みの念が薄れたとしても、その積年の恨みは凄まじく、生霊は既に被害者の意識からは離れ、独自のアストラル存在として加害者に憑いているため、そう簡単に生霊の呪縛が解けるものではない。
そのため霊的な世界では、「生霊は厄介なもの」として忌み嫌われている。
では、知らず知らずとはいえ、人様から恨まれ呪われた結果、生霊に取り憑かれてしまった場合はどのようにしたら良いのだろうか・・・。
ここで説かれる秘教の教えは、大変高度な霊学の教えである。
よって、そのような低次元のアストラルな現象については意に介さない。
(秘教には想念力を使ったエーテル殻や、アストラル殻の防御法があるが、やはりイメージトレーニングに慣れていなければ、これらの防護膜を形成することはできない。)
早い話、秘教では生霊の対処法などは全く説かれていないのである。
そこで、敢えて生霊の対処法の答えをひとつ挙げれば、「忍辱」ということになる。
この忍辱とは、仏教では「ただひたすら耐え忍ぶこと」をいう。
秘教はまたの名を「トランスヒマラヤ密教」といい、チベット仏教の系列に含まれるものである。
なので、「ただ苦しむことが己がカルマの清算になる」と覚悟し、なお一層の精進を心懸けられたし。
秘教以外で対処法はないの?
ここでは『超秘教入門』と銘打っているので、秘教の教えを主にして話を展開している。
よって、本来なら秘教から逸れる生霊の対処法については触れるべきではない。
けれど、生霊は霊障問題である。
なので、身から出た錆とはいえ「ただそれに耐えろ」というのも酷であるから、参考までに中村雅彦氏の著書「祈りの研究」に記されている生霊の対処法の部分を要約し、補足も加えて紹介しよう。
①は読んで字の如くなので横に置くとして、問題は②と③になる。
②は、長年、古神道や密教、修験道を修めてきた行者でもない限り、俄仕立ての祝詞やお経を唱えたところで、霊的な言霊の波動を発することなどすぐに体得できるものではない。
③は、日本で生まれた人は、生まれた時から産土神と霊的な繋がりを既に持っているので、仏閣云々の前に産土神社を押さえることが先決である。
ここからは、この③の「神社を活用した生霊の対処法」に基づいて話を進めていこう。
それが日本人にとっては最も理に適った霊的な方法であるからだ。
産土神社とは、基本的には自身が生まれた時に住んでいた家から一番近くにあった神社のことをいう。
但し、霊的諸事情により、必ずしもこの法則には当て嵌まらないことがある。
その場合は、自身が生まれた土地の地図を広げ、地元の各神社の鳥居の印に一つずつペンデュラムを垂らしながら、このように念じて質問するとよい。
「私の産土神社は、地元のどの神社ですか?」
その中で一番勢いよくペンデュラムが回転した神社が、その人の産土神社である。
産土神はその人にとっての霊的な親なので、産子の人が産土神に頼るのはおかしなことではない。
ただ、産子とはいえ、神社の産土神に日頃から感謝の祈りを捧げていない人は、いきなり行って願掛けをしたところで、おいそれと聞き入れてもらえるものではない。
(産土神からしてみたら、「なんだ、日頃挨拶に来もしないのに、困った時だけ神頼みか・・・」といったところだろう。)
自身の産土神社に対して、頻繁に参拝し心から感謝の祈りを捧げていることを「通し」という。
これは言うまでもなく、開運を求めた現世利益とは全く別の心からの神信心である。
言い換えれば、日頃から純粋な祈りを捧げている人には、産土神は産子の心の内を知っているので、本人の気づかぬところで力を貸してくれている。
それをかつての日本人は、古くから「お陰様をいただいている」と言って、感謝の祈りを産土神に捧げてきたのである。
また、産土神にきちんと挨拶できている人は、人に対しても気遣いができるので、間違っても近隣から恨まれ生霊の災いを受けることはないと言える。
逆に、生霊問題で苦しむ人達は鈍い人達であり、「神に対しても人に対しても気遣いができない人」ということになる。
なので、ここでの生霊の対処法は、自身の産土神社に生霊を払って貰えるようにお願いすることである。
但し、それには日頃の神に対する感謝の祈り、「通し」が必要になることは言うまでもない。
地方から上京してきていたら?
例えば、現在筆者は東京都在住であるが、故郷は横浜市になる。
この場合、現在の居住地にある神社が「鎮守神社」になり、「産土神社」は出身地の横浜にあることになる。
この場合、頻繁に横浜市にある産土神社には戻って挨拶することはできないので、今住んでいる地元の神社の鎮守神社に参拝して感謝の祈りを捧げ、お陰様をいただくことになる。
というように、地方から上京してきている人達は、頻繁に故郷の産土神社に戻ることはできないので、土地の神から守っていただこうと思うなら、今住んでいる所の鎮守神社を探し、そこの神社のご加護をいただくようにすればよい。
この場合も、地元の鎮守神社が分からない場合は、先に紹介したように「今住んでいる土地の地図を広げ、ペンデュラムを垂らす方法」で鎮守神社を見つければよいだろう。
但し、今住んでいる家から近いとはいえ、稲荷神社は産土、鎮守神社には該当せず、また、近年は廃れた神社もあり「神社必ずしも清からず」ということも有り得るので、この辺りのことも考慮に入れておく必要がある。
このように神社の活用法を見ていくと、最低限押さえなければならない諸条件があり、ある程度古神道などをして霊的な知識を身に付けていなければ、正しい神社の活用はできないと言える。
もし、自分の産土や鎮守神社が分からない場合は、今住んでいる旧國の一之宮もしくは総社に参拝し、日々の感謝と共にご加護をお願いするとよい。
筆者の場合は東京都在住なので、旧國の一之宮は二つ存在する。
それは現在の埼玉県にある、武蔵國一之宮氷川神社と氷川女軆神社である。(本来の武蔵國一之宮は聖蹟桜ヶ丘にある小野神社であり、大宮にある氷川神社は三之宮であった。)
武蔵國の総社は、東京都の府中にある大國魂神社になる。
なお、一之宮とは、各旧國の中で一番社格が高い神社のことをいい、総社とは、旧國の全ての神々を祭っている神社のことをいう。
この一之宮と総社は、霊的には二つで一組と見なす。
このように、日本の神社というのは産土、鎮守、旧國の一之宮、総社、総鎮守と霊的に繋がっており、いわば霊的な区役所、市役所、県庁というような階層的構造で成り立っているのである。
そして、神社参拝の心得としては、財布の中から五円玉を探し求めるようなさもしいことはせず、身の丈に合った相応の金額(紙幣)を納めることを奨める。
(神社ではお賽銭を惜しみなく納めると、それ相応のご利益を受けるものである。)
今回の超秘教入門は「カルマ」の回であり、カルマをただ語るだけでは数行で終わってしまうので、自身の負のカルマによって加害者になった場合に生じる被害者からの恨みによる「生霊問題」を取り上げてみた。
もちろん、家族や友人などの親しい間柄で多少口論になっても、このような怒りから生じる生霊問題などは起こり得ない。
生霊問題に発展する場合は、自身の日頃の習慣から知らずに他者に迷惑をかけ続けた場合に起こるのである。
塵も積もれば山となるという古い諺が示すように、長い年月蓄積された人の思いというものは、実に怖いものである。
即ち、カルマとは自身の影の如く常についてくるものであり、また、人から飛ばされた生霊も影の如く常に付き纏ってくる。
このような憂き目に遭わないためには、何をするにも日頃から自分目線ではなく、他人目線で見る習慣を身に付けておけば、他者から怒りを買うこともないであろう。
人間、「明日は我が身」と戒め、日々の内省と森羅万象に対する感謝を忘れないように心懸けたい。