見出し画像

落書きコンプレックス

はじめに

こんにちは、あるいはこんばんは。
紫陽花です。
前回の投稿から、早くも2ヶ月が経ってしまいました。「一月は行く。二月は逃げる。三月は去る。」と言いますが、本当にその通りですね。お正月が明けたらあっと言う間に、新学期が来てしまうような気がします。
四月から新生活が初まるぞという方もいらっしゃると思うので、皆さん体調管理にはくれぐれも気をつけて、ご自愛なさって下さいね。

さて、今回のタイトルは「落書きコンプレックス」と言うことで、落書きにまつわる個人的で複雑な想いと共に、落書きと学力の関係について少し考えてみました。短くコンパクトにまとめてみたので、ぜひ最後まで読んでいただけると嬉しいです。
それでは、以下本文になります。

本文

突然ですが私は、落書きをするのが好きでもあり、嫌いでもあります。
もっと詳しくいえば「嫌いな本に落書きするのは好き」ですが「好きな本に落書きするのは嫌い」と言うことになるでしょうか。
とても大切に読んでいる本に至っては、毛くずのような線の一本すら許せません。生理的な嫌悪感すら覚えてしまいます。
その理由は多分、落書きとは基本的に失礼なことだから、なのではないかと思います。
例えば、戦前戦中の教科書は、天皇様からの賜り物であるとして、代々生徒間で引き継がれ、落書きは御法度だったそうです(必ずしも遵守されていたわけでは無いと思いますが)。それは天皇様は勿論のこと、教科書という選良書にもまた、敬意を払ってのことだったに違いありません。
そして今だに、学校の教科書というものは、落書きがしにくい紙質のものが採用されています。それは教科書を作る方々からの、無言のメッセージだと思うのです。

落書きとは即ち"汚す"ということです。一度つけた汚れを二度と消さない以上は、書物を単なる消耗品として扱っていることを意味します。
現に、私がテキストに傍線を引くようになったのは、幾つもの問題集を一冊ずつ、切り捨てるようにして解くようになってからのことです。
こう考えていくと「落書きが多い子は賢い」という言説は、半分正しく、半分間違っていると言えそうです。
なぜなら、ただでさえ書き込みづらい教科書にあえて落書きをする生徒は、余程勉強熱心で、教科書をただの"メモ用紙"としか見ていないほどの"浮きこぼれ"か、それとも、全くの勉強嫌いで、教科書をあたかも"ちり紙"のようにしか扱えないほどの"落ちこぼれ"かという、そのどちらかに二極化するからです。

私自身はどうかといえば、小学生から大学生になる過程でいつのまにか、前者から後者へと移っていたケースです。小学生の頃は、満点のテストの裏に絵日記を書いては先生に呆れられたものですが、大学生になった今では、テキストの落書きを誰かに見せることは、とてもではないですが、恥ずかしくて出来ません。「十で神童。十五で才子。二十歳過ぎれば只の人。」という訓辞は、本当に上手いこと言ったものだなぁと思います。

最後に、落書きコンプレックスにまつわるエピソードをもう一つだけ。
私は本が好きで、よく古本屋に立ち寄るのですが、掘り出し物の難読書の中に、汚らしい傍線が引かれているのを見つけては、とても惨めな気持ちになります。
それは「君が大切に読もうと思った本など、簡単すぎてつまらないよ。」という前所有者からの無言のメッセージに他ならないからです。

おわりに

本文は以上になります。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。嬉しい限りです。

もしこの記事の感想や、皆さんならではの落書きエピソードなどございましたら、コメント欄に書いていただけると幸いです。それでは、またいつかの記事でお会いしましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?