ローカルに必要なカオスと個人主義について

地域に必要なカオスについて。
渋谷のような、個々が衝動や利益追従のために好き勝手蠢くことで運動エネルギーが生まれ、その熱源にさらに人が集ってくるように「カオス」が地域の生存には必要か。

そこで築かれてきた土壌や文脈を時にグラフィティアートのように上塗りしたり破壊しながら新たなものが生まれいくのかもしれん。
文脈とは可能性の原石。
それを上書きするもよし、アンチパターンとして破壊的創造の可能性もある。 (もちろん破壊しすぎることは生態系の滅亡を引き起こすのでNG)

そもそも地域とは「リソースが少ない」から連帯することが生存だった。
そのため「足並みを揃える」ことが必要、とされている。
一方どうしようもない都市への集積という社会的構造の前に、その足並みが跡形もなく崩れ去ろうとしている。
では何のための足並み?が健全に議論されるにはあまりに地域というものは極めて曖昧模糊。

その点、ある程度の個人主義と自由経済のようなものが罷り通る方が、良いのかもしれない。
かえって渋谷のような、カオスだけど引いてみれば一つの生態系としてコスモスがあるような状態を作れることが持続可能性につながる。
その点、小高や浜通りというのは究極のホワイトキャンバスで、それぞれの小さな単位でまちがあり、それぞれ官民のテリトリー、関係性やパワーバランスなんかも本当にまちまち。
そこで生まれる意思たちが自由にどれだけ色塗りをできるか、官民それぞれみんな頑張っている(と信じたい)キャンバスを作る官と、時にそれにうまくフィットしたり、意図せず塗りたくる/壊してはみ出せるポテンシャルのある民。

東京一極集中が加速したというニュースを悲観的に、冷笑的に捉える方もいますが、まぁ振り子ですよね。
3.11→コロナ→???(2030あたりか?) 社会構造がぶち壊された時に、傑物が生まれる。
3.11の時とは違いより全日本、グローバルに社会の揺らぎが起き、価値観のチューニングが起こったいい契機だと思います。
当然「選ぶ」人は「選んだ」ので、楽しくやれる奴と一緒に楽しみましょ。


都市、資本主義、中央集権とは全く別軸に生きるオルタナティブな存在として地域の民、楽しくやりましょ。


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